インターネットやめろ


言葉とは何なのであろうか。

わたしはこの数年間、短いなりにも言葉を見て、扱ってきたつもりだった。しかし、はたして本当に”そう”といえるのだろうか…?

 ツイッターをよく好んで使うから感じている。ツイッターは危険だ。言葉が遠のいていくからだ。
言葉が遠のいていくとはどういうことか。このSNSでは顔が見えないから、文章上でしか(あるいは写真を使ってしか)自分の思うことを表現できない。それが前提だから。他人も文章でわたしを判断しているだろうという憶測がある。すると、他人に「こう見られたい」自分を演出し始める。ネタツイの始まりである。でもあくまでもネタツイなので、これは外側の自分だから…というテイでみんなやっているのかもしれない。もはやなにも考えていないのかもしれない。ネタツイマシンとして生きているのかもしれない。気づかないうちはまだ花だ。

自分を演出するツイートをしていると、自分の内側から出てきたソースだったとしても、他人の目に触れられることを逐一意識する。だから思考にもそういう嫌な自意識が潜り込んできてそれを加速させる。しかもインターネットのタイムラインは一秒一秒変わっていくから、切り取られた自我がどんどん粒子になっていくような感覚に襲われる。自分が文字通り、拡散してしまう。それに気づいたときはもう手遅れで、わたしもすでに手遅れだと思う。素直な気持ちを呟いたところで、呟いた、言葉にした、ツイッター上の、タイムラインのツイートにしたところでもうそれは他人からみてほしい、とか面白がられたい、とか、邪魔な思考が含まれている。そしてその自分に嫌気がさして、「終わりです」でも「狂いました」でも何か言おうとするも、それすらキャラ作り、逆張りだしな…という最悪ループに陥りもう逃れられなくなってしまうのだ。Twitterやめたい。

文字、および文章は、人に読まれることを前提として存在するものだと思っていた。この間文学フリマへ行って面白かったのは、「読もうとする者がいないと現れないテキスト」というコンセプトの本。黒く前文が伏せ字になっているカードで、ホッカイロで温めると文字が浮かび上がるものだとか、ゲームブック形式で、実際にはたどり着けないページがあり、読む人が本を開くことによって、初めて読んだ人の頭に広がり、この世に存在するというわけだ。

言葉は、何のためにあるのか。どうして言葉は生まれたのか。あくまでも伝達のためではないのか。人が人に何かを伝えるための記号が、言葉になり、情報として広がった。だから目的化されているし、読まれ、発話され、初めて命が宿ると思う。それはつまり、わたしが言葉を、人間に使役されて初めて機能する道具としてしか言葉を見ていないからだと思う。しかしその裏側では、言語化できないものへの思いがあるからである。
どういうことか。

「本当」とはないのである。真実の部分に触れようとした文字はたくさんある。しかし、真実の部分を口に、文字に表した瞬間、それは真実ではなくなってしまう。なぜなら作為が生まれるからだ。わたしはこのことが歯痒かったが、考えてみれば当たり前である。
 わたしは今実は部屋に篭らざるをえず、そんなことをずっと考えている。フローチャートの絵を書いてみたが、真理に到達できる言葉はそうそうない。例えば、ニーチェの有名な「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」という句がある。なるほど確かにそうかもしれない。しかし、深淵そのものは何かを表そうとするとなにも言えなくなってしまう。スルッと掌からこぼれ落ちていくのである。確かに、形容することはできるだろう。しかし、真実に形はないから、それを言い表すことなどは実質、不可能である。
わたしはこの、言語化できない、こぼれ落ちていくところに言葉が言葉であること(形を持っていること)の限界とその可能性を感じる。

愛あるものに、愛そのものに形があっていいのだろうか。人が生きる理由があっていいのだろうか。わたしがわたしであることの理由が、言葉によって解明されてしまっていいのだろうか。わたしはそうは思わない。解けない謎があり、言語化できない部分がある限り、人間は全知全能ではないし、ユートピアには辿り着けないだろう。しかしそれでもいいのだと思う。答えの出ない問いかもしれなくても、問い続けるというその形のない姿勢こそ人間を人間たらしめているのではないだろうか。
 
わたしは漠然と人間がずっと幸せになれればいいなと思っていた。しかしずっと幸せなんてこない。みんな同じ夢を見てディストピアみたいなユートピアでもいいかなと思っていた。だが、今の現実にはそんな技術はない。コロナ下で散々退屈な時間を過ごしたり、疲れからか、だいぶ落ち込んでしまった。とても苦しかった。
そもそも生きることは苦しいのである。苦しみから逃げる方法はないが、軽減できる方法があることに気がついた。忘れる、ことである。気を紛らわせる、つまり気休めである。死は救済ではない。死んだら、わからない。死んでも、地獄が続くかもしれない。し、結構死ぬのって辛い。し、万が一死ねなかったらそれもそれでだるい。それに苦しいと思うのは、先のことを考えるかららしい。未来を案じ、過去を思い、現在という概念が生まれるから、今が苦しいし、今が無限に長く感じる。いまを生きているときは苦しくない。先を案じたり、過去を憂いたりする暇はない。ただ着実に淡々といまを生きるしかないらしい。

話が大きくなってしまった。言葉はそのもののことを言い表すのが難しいが、このように一例を述べたり、言葉にいいあらわすことのできないような感動を伝えられる。言葉は乗り物のようだと例えたらどうだろうか。乗り物は、様々な形がある。使う人によって美しくも悪しくもなるし用途も違う。飾る人もいれば、利便性を求めるだけの人もいるし、それを寝床にしている人もいる。それ自体単体でも見応えがあるし、操縦者、そしてその人の力量によって形が決まるように思う。

わたしはとてもシンプルで丸い車に憧れるが、実際は山車に乗っているようなものかもしれない。
 

 

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