「好き」と幸せの予感たち
映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」について語るために、YouTubeを見たりしてた。それからずっと、この映画の曲たちが頭の中で流れてる。
あぁ、やっぱり好きだ、と何回も思う。
映画の好きな部分ばかりを思い出してたけど、ストーリーはけっこう悲しみに満ちていて。あと、性的な描写もあるので、ドキッとしたりする。
でも、なぜか楽しい部分、可愛い部分、素敵な部分だけが心に残る。
落ち込み気味だった気分も、ヘドウィグの歌に乗って、なんか元気が出てくるし、なんか素敵な気分になる。
そして、職場でちょっと暗い廊下でも歩こうものなら、映画の最後のシーンが頭の中で再生されて、BGMとして曲が流れて、やたら力強く歩き出す私、みたいな。
なんか、一人で楽しくて。
幸せの予感たち
過去の記事にスキをいただいたりして、読み返して、ふと、私のハッピーは他人に依存してたな、と思った。
自分はつらい目に合わないよう、避けて逃げて生きてきてるところがあって、こんな生ぬるい私は、幸せなはずだ。幸せでなければならない。なんて。
そこには、常に他の誰かとくらべている自分が居る。誰かよりも幸せな自分。そうやって見えない「誰か」がもれなくついてくる。
でも、幸せって、こう、好きな世界にひたっている瞬間だったり、ぐぐっと力がわいてくる瞬間だったり、ふわーっと嬉しい気分になる瞬間だったり、自分の中から出てくるものなんだよな、と思った。
たとえば、自転車に乗っていて、いつもだったら右折してくる車がつっこんできがちな横断歩道で、しっかりスピード落として安全確認してくれる運転者に、ありがとうの気持ちになったり。
たとえば、自転車と車ですらギリギリにしかすれ違えない狭い路地で、少し広いところで「お先へどうぞ」と待ってくれる運転者に、ありがとうの気持ちになったり。
笑。これ、今朝の私の「ありがとう」の気持ち。
感謝の気持ちって、幸せの予感だなぁと思った。
幸せって、自分の中の、こういう何か素敵な気持ちの上にあるものだよな、と思った。
自分の「好き」の気持ち
よく、幸せは人と比べるのをやめるところから、みたいなのを見たり聞いたりしてたのに。全然、自分事にしてなかったな、と思った。
自分の「好き」を語る瞬間って、すごく「自分のために自分がそこに居る」感じがする。
改めて、自分の「好き」をしっかり見つめて、その周辺にある熱い気持ちや、温かな思いを言葉にできたらいいな、と思う。
そしたら、今までとはまた、ひと味違った感じの「私の幸せ」が見つかるような、そんな予感がする。
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