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悪役の考察と父と私と

妖怪と悪役についての考察に出会う

コーチングセッションを受けた後、父のことが頭から離れなくなって、このモヤモヤというか、この得体の知れない感覚は何だろうと模索した。

ま、Google先生に思いつくままにキーワード入れていくんですけどね。

そしたら、面白い論文に出くわした。

京都大学の長谷雄太先生が博士の学生時代に書いた 
<論文>悪役についての臨床心理学的考察 --妖怪を主題としたマンガ作品をめぐって--

なんか、すごいもの見つけたー!と思った。今、自分が欲しかった考え方・情報に出会えた。

何回も読み直して、一つ一つ意味を考えていく。

ちょっと時間はかかったけど、読んだ後、自分が隠そうとしてきた本当の自分を、ついに受け止められるようになった。

自分が本当の自分を受け止められない理由は、本当の自分は「悪いもの」なんじゃないかという恐れがあったから。でも「悪役」だったと捉えることで、見ないようにしていた本当の自分を見つめることができるようになった。

そして、自分が妖怪に惹かれたり、物語の悪役に自分を重ねてしまった経験も、納得して受け止められた。

以下、読み終わった後に書き留めた感想。

  • 自分は化け物に近い感覚をもっている。

  • あるがままの自分をさらけ出すことが怖く、本当の自分は人から嫌なものとして見られる感覚がある。

  • 自分は悪役に興味を惹かれていた。自分を重ねられるところが多くあるから。でも、悪にならないよう努力していた。幼少時に得た宗教観・道徳観が強く関係していると思う。

  • 悪役は第三者の視点で生まれるもの。

  • 自分の願いを叶えようとすると、他人から悪と言われる構造が認識できた。

  • 自分が怖れている自分の核心、他人から隠そうとしている部分は、本当に「悪」なのか。

  • 異者であることは、悪役の必要条件であって、イコールではないということに救われた。

  • 自分を異者(≠悪)として捉え直すことで、隠さなければならなかった本当の自分の存在を認めて、自分として融合し、コントロールできるような気がする。

悪役の解釈

子どもの頃から、自分は人と違うことを感じながら大きくなった。まわりから「あなたは何かが違う」という空気を感じ取っていた。

その「異者」としての感覚から、本当の自分が何か人には見せてはいけないもの、悪いもののような感覚を持ってしまっていた。

でもこの論文を読んで、異者であることは悪とイコールではないと理解できて救われた。

自分は人と違うだけで、別に悪いわけではないし、嫌なものではないんだ。

あと、悪役は、本人が悪いものになってやろうと意図してなるというよりは、第三者の目線から、こっちは善、こっちは悪と割り振られるもの。実は本人は何か目標を達成しようと夢中になってるのを、外側から悪いことをしている!と弾劾される。美しい世界を作りたいとか、復讐したいとか。それが「みんな」のためにならないと感じる人から、悪役と呼ばれるのだと思う。本人からしたら善だとしても。

「勝てば官軍」という言葉があるけど、どれだけ悪いことをしていても、勝者が善だと言えば善になるものだ。

新しい風を吹き込む悪役

もう一つ、悪役を「元からある秩序を壊して何か新しい関係性を創り出す存在」と捉えることで、これまで「悪いもの」のように感じてたものを、「新しいものを創る存在」と考える視点を持てるようになった。

父が、田舎の風習を変えなければよかったと後悔していたことについても、父は悪役だったという構造で見るとよく分かる。これまでの風習を変える存在というのは、地元の利権者にとっては悪だったと思う。父本人は変えた方が良いという思いに突き動かされて、変化を起こしている。それを後になって、他の人の目線で考えたら悪だったかもしれないと、罪悪感をもってしまうのだ。

物語の中で登場した悪役は、完全な悪ではなく、いつの間にか主人公の仲間になり、また新たに悪役が登場する。この現象が面白い。

新しい価値観としての悪役の存在が受け入れられるようになったら、悪役だった存在は既に悪役でなくなり、また新しい価値観、新しい悪役に出会う。

父は、風習を変えたときは悪役だったかもしれないけど、変わった後の生活に慣れてしまえば、もう悪役ではなくなっているのだ。

悪役としての私?

異者である自分を隠さないといけないと思ってしまう自分は、もしかしたら何か悪役としての役割があるのかもしれない。

何か今ある関係性を解体し、新しい価値観を創造することになるのか?
そんなことになったら面白いな、とちょっとだけ、わくっと心が踊る。

そんな自分になれたらいいな。

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