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余白は「いきる」を助ける

 椅子というのが面白い。
今座ってパソコンに打ち込んでいるのはパソコンチェアなのだが、レバーを上げ下げさせて坐高を調節する機能、素人目ながらプラスチックの湾曲した構造物によって背もたれが荷重に負けず定位置を保つよう設計されているのに気づく。これらひとつにしても数百年かけてノウハウや工学の蓄積がなされて初めて完成した道具なのだろうと思うと、ロマンを感じる。

次に引っ越しするとき、少し高価なゲーミングチェアを買いたい。最初はウィンザーチェアにビューローデスクか文机に座椅子のペアを置きたかったが、こたつにあぐらをかいて日記をつけたりするうち猫背になってつらいくなるのだ。背中と首がじわじわ固く張ってくるのが地味に嫌だ。

 私たちの作業環境は快適度に左右されるわけだが、案外見落としていたのはフリースペースを設けることだった。ここで言うフリースペースとはいわゆる空間の「余白」である。

余白が無いと他の物を置いたりする余裕がない。教科書など足元や他の場所に置いて必要になったらいちいち立ち上がるなどして取りに行かなければならない。解決するには棚を増設したりとある範囲の中で高層化するのが有効だが、それらを通じて生み出したいのも結局余白(フリースペース)だった。

 いきるという抽象的な問題を考える際にあえて余白を設けておくことはかなり有効ではなかろうか。
私は食べて、寝て、自分やグループを生き残らせるために働くのが「動物」としてのいきる意味であると思っている。人間が動物と異なるのはそこに抽象的な意味付けを求めてしまうことであり、それが人間らしさといわれるものの一部なのだと考えている。
 いきる意味とは何かを考えることは思考力の堆肥となるのは間違いない。しかしそれに囚われてしまっていては気づけるものにも気づけないこともまた多い。だからこそ、あえて余白をつくってみることで何かを生み出し、みつけるチャンスとなるのではないだろうか。

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