『大衆』と『変わり者』 ~普通とは何か~
「○○さんって、なんか変わってるよね」「なんか個性的だよね」
――こういった所謂「なんか」変わっている人が題材とされた会話を耳にしたことがある、乃至同じような内容の話を交わしたことがある、という人は案外多いのではないだろうか。
この類の話を耳にする度私が気になるのは、「変わった人」という言葉がどういった人を指すのかということよりも、逆に「変わっていない人、普通な人」など存在するのだろうか、ということである。
そもそも「普通」とは何だろう。私達の常用している普通という言葉は、何を基準とした「普通」なのだろうか。
――身近な観点から考えてみよう。一先ず学校内という基準を拝借する。仮に、何をしても並大抵の人、つまるところ成績順位はどの教科も真ん中、体力テストも平均、楽器や絵画など芸術面においてもまずまずの出来栄え、身長も体重も校内平均、容姿もあれこれ騒がれるほどでない、そんな「キングオブ普通君」がいたとする。
さて、この普通君に対してあなたならどのような印象を持つだろう。何のとりえもない人間だと思うだけで片が付くだろうか。
もしも友達に彼のような人がいたとしたら、私ならば彼のことをまず普通だとは思わないであろうし、むしろ尊敬のまなざしで見ると思う。というのも、彼が私に無いものを持っているからだ。
何もかも平均であるというのも、かえって器用な人だと私なら感じる。何でもかんでも平均的にこなすことが普通だという考えは間違いだ。当然私にはとてもできない。だからこそ彼の「何もかも普通」という一見月並みな個性を一種の才能だと捉えるのだ。
このことから分かるのは、「対象のものが普通か否かを判断する基準は個人個人の持ちうる価値観に依存しており、それは自分の性格や色眼鏡といった個性なしには存在し得ない」ということである。先ほどの普通君に対する見解もまた、言ってしまえば単なる私の独断に過ぎないのだ。
「普通」の基準が人それぞれのものであると結論づけた以上、この世に同じ人間が居ない限り万人にとっての普通は存在しないと分かった、ということで話を切り上げてもよさそうだが、ここで私はもう一つの疑問を提示したい。
冒頭に記した会話文についてである。
先にも述べた通り、「普通」という言葉を用いた会話は我々の日常に違和感なく存在し、用途に一々思い煩うことなく用いられている。会話という他者との関わり合いに「変わっている」「普通」といった、個人の価値観に依存した言葉が飛び交い、さらにはそれに共感の意を示すということも少なくない。
違和感を感じないだろうか。
誰かの言った「あの人なんか変わってるね」に、他の誰かが共感の意を生じるということがあるのならば、もしかすると「普通」にも個々の捉え方以前に、大衆に通ずる一般論的な定義があるのかもしれない。そうとなれば、どうやら「普通」を個人の問題だと一蹴するわけにもいかないようだ。
よくあるのが「周りとなんか変わっているあの人」の「なんか」の正体が分からないというだけで、「あの人が変わっている」ということには共感できる、という事例である。形容しがたいというか言語化に困るのだが、明らかに目立った存在である人というのがたまにいる。感覚任せの腑に落ちない表現だが、この一見薄っぺらい共感にも突き詰めていくと何かしらの根拠があるということなのだろう。
先程個性なしに普通のものの価値観は存在しえないという旨の話を述べたが、これと同じくらい「普通」を見出すのに必要不可欠な要素がある。それは、周りの環境にいる「人々」、変わり者と呼ばれる少数派の対となる存在、つまりは多数派だ(当然だが研究の際、比較対象なしに物事の特色をとらえようとするのには少々無理がある)。
具体例として、少し余談を挟もう。私が自ら発見したことなのだが、周りの多数派と異なる行為をしさえすれば、ちょっと目立ちたいときに目立つくらい誰にだって容易いことなのだ。試してみたければ学校の全生徒が大人しく校長の話を聞いている集会のときなんかに、何も考えず大声で自分の名前でも叫んでみればいい。次の日から校内にあなたの名を知らない者は居ないだろう。たちまち校内の有名人に大変身だ。大概の人はそういうことに対して教育相応に培われた羞恥心などによって制御が効くのだが、変わり者と呼ばれる人はそこに重きを置いていなかったり、それ以上にアイデンティティの危機を始めとした、他の執着しているものを重要視しているなどといった人が多い(さすがに今の具体例は度が過ぎているが)。
というか、少なからずどこか吹っ切れた一面がないと変わり者になるのはなかなか難しいものがあるだろう。変わり者と呼ばれる人類が少数派な理由の一つはこれである。
誰かに「いや、変わり者が多数派であったらそもそも変わり者と呼ばれるに値しないだろう」と突っ込まれそうな話である。しかし考えてみてほしい。少数派=変わり者という考えは本当に正しいのだろうか。こういう突っ込みをする前に、たとえ多数派が正しいという理論で回っている社会は多くとも、必ずしもそれが真ではないということだけは知っていてほしいと思う。反例は探せばいくらだってある。パラダイムシフトの始まりは常に少数派だ。
話を「多数派と少数派について」に戻そう。同じとまではいかなくとも似通った価値観の人間が多くいた場合、簡単に言い換えるとその価値観は「人気がある」ということになる。価値観が同じ人同士が集まり大衆を成すことのメリットの一つに、安心感の獲得というものがある。良いことか悪いことかどうかはさておき、同じ考えを持つ人と出会ったり、誰かと共感しあった時、人は安心感を覚えるものだ。哲学用語で「mass(大衆)」といわれる所謂多数派に我が身を置くということは人間が本能的に安心感を覚えるメカニズムなのである。常識だとかルールだとか呼ばれるものの多くは、それに従うことで大衆に身を置くことのできる一種の道しるべとも言い換えられるのだ。
大衆派と少数派の話をするうえで、フーコーという哲学者を取り上げる。彼は少数派が排除される傾向にある世の中に疑問を抱いていた。そのため自らの世論の捉え方、身の置き方について取り上げた著作をいくつも残している。中でも今回のテーマの参考となりうるのが彼の著作「狂気の歴史」である。ここにある狂気とは、今まで述べてきた「変わり者」に当たる。精神の異常性の把握が時代ごとにどのように位置づけられるのかを解き明かしている。一つ引用させて頂く。
これは作中の彼の言葉だが、私が建てていた個人個人の「普通」の違いの話を延長させればどうやらフーコーの考えと綺麗に当てはまる。万人は流石に不可能としても、大衆に通ずる「普通」というのも、結局は個人の集まりによって作られたものであったのだと気づかされた時は眼から鱗であった。
ところで私は彼について授業で取り上げられた際に倫理学の先生が授業内でしていた「理想の教師像」についての話が今でも忘れられない。
「私は何に関しても『成りきらない』ことを大切にしている。完全な教師にはなりきらないようにしている。何故ならば『完全な教師』に成りきってしまうと、教師としての目線でしか教師を顧みることができなくなってしまうから。授業を受けるのは教師ではなく生徒たちなのだから、教師は『教師』という名前の仕事に身を置いて且つ、生徒として、子どもとしての目線でも教師を見ることのできる存在であるべきだと思う」
意訳である部分の多いのが心残りだが、内容のあらすじは確かこのようなものであったと記憶している。子どもを含む少数派たちの意見は、それがいずれ大勢の心を揺るがす素晴らしいものであったとしても気づかれぬままに消え去ってしまうことが多い。他人の価値観が尊重されたこの考え方が、私は物凄く好きだ。
最後になるが、私自身はといえば、たとえ少数派であろうが多少ひねくれていようが、人と違った価値観を持っていたいと思ってしまう。大衆にいることに、安心感よりアイデンティティの危機を感じる私のような人間だって少なからず存在するはずだ。
周りからよく変わっている人だと言われる。その人の言う「普通」は一体何を基準とした「普通」なのか。はっきりとは分からないが、きっと相手は一々「普通」に対してあれこれ考察したりなどしていない。こんな答えのなさそうな題材に関して長々と論じている時点で、確かになかなかの変わり者かもしれないなあと自分でも思う。
利益や勝敗を求める上という目で見れば、この上なしの非合理な価値観だ。それでも私は、何に関しても中立的でありたがり、大衆に届くことのない少数派の考えにも目を向けられる一面を持った「変わり者」でありたい。
この文章について(2022/06/16追記)↓
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