血縁のばあちゃんが全員死んだ

2022年の7月3日と2023年の7月27日に、父方と母方双方の祖母が亡くなった。いまこのときの感情を供養するため、文章を残しておきたいと思う。

どちらの祖母にも思うこと

そもそも私は幸か不幸か両家共に祖父祖母と同居していない。(父方は次男が、母方は長女が婿養子をもらって同居していた)高校を卒業してから県外に出たことや、就職も全国転勤だから自然と親戚づきあいは遠くなっていった。そもそも地元というものは私にとって呪いの地ですらあるので、自然と足は遠ざかった。帰省ですら年1回といったところだ。生来の恩知らずなのか両祖母との記憶もあまり残っていない。それでも要所要所での記憶が残っていているので、不思議なものだと思う。

どちらも既にこの世には存在しない。もう会うことができないことを思うと、胸がしめつけられる。

ただ、存命だった時期は積極的に会おうとは全く思ってなかった。入院していると聞けばお見舞いにいく程度の気持ちだったが、コロナ禍だったこともあり都合のいい言い訳もあった。自分の意識の範囲外だったというのが正直なところであり、今の感情とのギャップに多いに苦しんでいる。なぜあのとき、といった後悔みたいなものがチクチクと胸を指す。これがまたキツい。

せめて亡くなる直前に会えていれば、という気持ちもある。これも都合のいい話で、そんなことなら定期に近況の確認でもしておけばよかったのだ。両親と連絡をとっていれば話を聞くことができたかもしれない。でも気軽に会うことができない場所に住んでいる。現実問題1回の帰省にそれなりの金額と時間を要する。親族と距離をとるとはそういうことだと痛感した。自身のライフスタイルに少し疑いを持った。これまで謳歌していたくせに、これもまあ都合のいい話をしていると自嘲気味になっていしまう。

長く書いたが、私は無浅慮な考えの手痛いしっぺ返しを受けている。お前の選択はつまりそういう痛みを選んだんだぞ、と現実を教えてくれた。今はその現実をただ噛みしめ、気分が落ちている。

父方の祖母の場合

父方の祖母はコロナ真っただ中で、関東圏に住んでいた私は葬儀への参加が断られた。当時はそれはもう落ち込んだが、実感を得ることもできず、ただ表現し難い感情だけが残った。酒と仕事の忙しさでやり過ごした。それだけだった。

母方の祖母の場合

今年は中国地方に異動になっていたのと、コロナが一応の終息を見せていたことから、参加が許された。それでも家から斎場へは片道6時間。葬儀に参加するため仕事の整理を行って向かったときには既に満身創痍だった。

ただ、やはり無理を推して参加することに価値があった。最期に顔が見れた。それだけでも現実感を呼び起こすのに十分であり、久々に見た祖母の顔はだいぶ小さく、細くなっていた。だが間違いなく祖母がそこで眠っていることがわかった。触れてみたかったが、怖くて触れなかった。

斎場にはさすがに親族が全員そろっていた。みな寂しそうな顔をしていた。特に母の表情は頭に残っている。楽しそうなのはひ孫たちだけで、元気に斎場をうろちょろしていた。

火葬は人数制限のため、参加することはできなかった。以降の葬儀は限られた人数で実施するとのことだった。理由はとくに聞いてないが、まあコロナ関連の対策ではないだろうか。実際、人数を制限するのであれば稀に会う程度の私が参加するわけにもいかなかった。斎場への滞在はわずかな時間で帰ることになった。

私はこれからどう生きようか

葬式後、どうしようもない気持ちが続いていて、いまだに晴れていない。気分転換に「君たちはどう生きるか」を見に行った。説教臭そうで避けていたが、今のこの感情に何か折り合いをつけるヒントが得られるかもしれないと思った。まあ、よくわからんかった。私にはまだ早かった。

でも題名に採用されている「君たちはどう生きるか」この原作は読んだことがあった。内容はだいぶ薄れたが、良い本だったことは覚えている。

マジでこれからどう生きよう。仕事も収入も安定した。あとは子どもができれば、想像していた生活は叶えられる。これから以降は経済的な基盤を拡大していくかが課題と考えていたが、人生には人との別れ方に対する準備も必要だと知った。この痛みは尾を引き、自分の心を蝕んでいく。どう対策を打っていくか、もっと豊かな生活を過ごしていくために考えていきたいところだ。

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