同じ苗字の彼が10年前に亡くなって変わったこと

20歳に亡くなった同苗字の彼

大学生のとき、突然大量のLINEと電話がかかってきた。生存の確認連絡だった。どうやら大学近辺で起きた火事により、大学の同期の一人が亡くなったらしい。その苗字(というか名前もほぼ一致)が同じだったため、みんな焦って電話をしてきた

その同期は挨拶程度を交わしたことはあるがほとんど交流はなかった。直接的に交流したことがなかったので、正直なところ驚きはあれど大した感傷もなかった。

ただ、野次馬根性で聞いたところによればその日は当該サークルの飲み会後で、泥酔した彼がタバコの不始末で起こした火事とのことだった。サークルAは飲みが激しいことで有名だった。交流のない彼よりかは、親交のある他のメンバーが心配だった。普通であれば、まともな精神状態ではいられない。

彼の死後に起きたこと

サークルメンバーあるいは周囲の人間の心中を察することはできない。人はあらゆる感情を乗り越えて生きているからだ。そのうえで当日の私は唖然としていた。

数か月後にそのサークルメンバーは引き続き激しいコール飛び交う飲み会を開催していた。確かに飲み会を自粛すれば死者が生き返るというものでもない。だが、私はなんだか釈然としなかった。

でも考えてみてば当たり前のことだ。人の死を覚えて続けていられないから、葬式があり、墓があり、お盆等のイベントがあるのだ。人を悼むという所作が自身を慰めてくれる。誰も悪くない。人間として当たり前のことだ。

その後のメンバーを詳しく調べたわけではないが、SNSを通じて人生模様を覗くことができる。誰もかれもがその後の人生を幸せに生きている。キャリアや家庭を築き、新たな命を迎えている。

ただ、遺族は葬式でも、その後の人生においても精神をおかしくしてしまったようだ、と別の知人から聞いた。今になって犯人捜しをしている、と。犯人とはどういう意味を指しているのか、確認することはできない。親族はその感情と向かいあい続ける。その終わり方が突発的なものである場合、しかも他者の介在を予想させる場合は、そのようになるのも理解できた。

早すぎる死の行く末

火事が近辺やニュースで見るたびに彼のことを思い出す。当時の模様を思い出して、少し心を締め付ける。名前が似てるだけだから、関連付ける意味もなにもないのだが、私が同じようになってもおかしくない、と薄っすら考える。

いずれ私の記憶から薄まり、遺族もいなくなり、関係者の記憶は未来に上書きされていく。

人の死は人の人生を変えられない。切ないが、事実だ。この教訓は胸に刻んでおきたい。


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