1. 自分クロニクル1。内なる繊細さを認める
冒頭まとめ
このほど自分の来た10-15年ほどを振り返る機会があり、自分には現在進行形で結構繊細なところがあるのだと認めることにした。自分なりのテーマと気遣いを持って歩んで来たが、その時々には悩みも傷もあったことを覚えている。思い出せばいい思い出しか無いなんて幸せだなとも思うが、最近になって実は「嫌な思い出」もしっかり封印されていたことに気づいた。また、自分は周囲の世界に積極的に関わらずにはいられない性質があるのに、そのくせものすごく疲れやすい。こういったことを自覚して生きていった方が良さそうだ。こんな内容を書いていく所存。
パート1 (伏線)全ての思い出が(一見)素晴らしい(のだが。本当に?)
先日考えていたこと。私にとっての10代後半、20代はもう過ぎ去ったものだが、今思えば最高だったなとしみじみ思った。私は基本「そういう風にポジティブに捉えるタイプ」だ。
数日前に、私は大学時代の写真が入ったCD-Rを見つけた。大学時代にアメリカンフットボールのクラブチームに入っていたのだが、そのクラブを引退するときに、後輩たちが写真データをCD-Rに入れてプレゼントしてくれたものだった。
合宿や試合の写真。20歳直前の私は若く楽しそうだった。そして20代になって学年が上がり、上級生として仲間と過ごす私も若く楽しそうだった。
もちろん当時、その時々に悩みがあったのをよく覚えている。理想とのギャップに悩み、やること、できていたいこと、それらを踏まえるといつも時間が足りないような焦りを感じていた。
しかしそれを見て、まずこう思った。「今なお私を苦しめている思い出」はパッと振り返ってもゼロ。他人と比べる必要は全くないと思うが、いい思い出ばかりが思い出されるということは、大変恵まれているのでは無いかと。今なお消えない心身の傷に日々悩まされているわけではないし、どれも楽しい思い出ばかりだった。「克服」できていたこともまた一つだし、最終的にできなかったことも傷ではない。自分の思考の「癖」の赴くままに、まずはそう思った。(しかし...。「最後に」へ続く。)
パート2 高校時代に自分のいち「キャラ」と出会った話
次に、さらに少し遡って高校時代についても思い出した。私は決して強いとは言えないラグビー部に所属していた。今私の部屋には、高校卒業のときに、やはりこれも後輩から贈られたラグビーボールが置いてある。長い間すっかり忘れていたが、そのボールには顧問の先生や仲間からの寄せ書きがなされていたのだ。書かれた内容は可愛らしい少年たちのコメント。「キャラ」「ギャグ」「替え歌」これらのキーワードで彩られた寄せ書き。当時の後輩からすると、私は楽しく陽気で冗談ばかり言っている先輩だったようだ。ラグビーは懸命に練習していたがプレー自体ではほぼ目立つことはなかったと思う。それぞれのチームに背番号10のエースがいるように、やはりそれぞれのチームにいたであろうチームを盛り上げる選手、それが私だった。
「冗談で皆を笑わせてくれた」「楽しい雰囲気を作ってくれる先輩」もちろん後輩から先輩へのこういったお世辞も含めてだが、少なくともそんな風に見られていた部分があるようだ。自分の中では、場を盛り上げたり雰囲気作りを大事にと思っていたし、後輩たちが萎縮しないで力を発揮できればなと「空気感」は作ってきた記憶がある。あとは新入生の面倒を見たり自分が学び取ったことをもっとうまく説明したり、もっと効果的に短期間で身につけてもらえるようサポートを惜しまなかった。それが組織のボトムアップに繋がるということになんとも言えぬモチベーションがあった。
自分が下級生のときに嫌だったことは改善を試みた。怖い顔をした先輩たちの話には入れず、自分的に強く感じていた学年間の「分断」みたいなものなど。チームとしての一体感がどうしても薄れてしまうというイメージがあった。さて、あの「キャラ」は天然ものか、人工的に作られた養殖ものだったのかどうなのか。
パート3 初めて会社を辞めたときのこと。「ケア好き」な人?誰?
高校時代以降顕著なこととして「自分のアクションを通じて自分のチームを強くする、チームで結果をだす」というモチベーションは何度となく私を動かしてきた。ずっと後のこと(時系列が前後して妻ならきっと嫌がりそうだが)。転職を控えて、新卒で入った会社を辞めたときには寄せ書きで、「あなたはケアが好きな人ですね」と言った切り口で皆から言葉をもらった。もらった時あまりピンと来なかった。組織内競争も激しく、非常に忙しい広告制作の現場チームで「ケア」とは一体何だろう。はてな。
しかしながら今思えば、人の気持ちが気になりすぎて放っておけないところはあり、これが「ケア好き」の評価に繋がったのかなと。「自分のアクションを通じて自分のチームを強くする、チームで結果をだす」というのも見ようによっては環境への「ケア」。よく言えば共感性が高いためか、誰か他の人の痛みをも想像することは私にとって当たり前のことだった。
当時、社会人生活は始まったばかり。アメフトに至るまで自分の「弱さ」である繊細さを「克服」して来た自負のあった私。自分にはもともと繊細な部分もあることは知っていたが、とても認めるわけにはいかなかった。平気な顔をして、社内競争を勝ち抜くため戦っていなければいけなかったから。
しかし冷静に振り返れば、そこも強がっていたんだろうなと。また同時に「ケア」という部分も自分の特徴として強く出ていたのだろう。なるほど今なら頷ける。なるほど。基本は社内競争を奨励された環境。同期は誰が手柄を立てたかと気にして、自分も負けていられないとばかり焦っていた。さながら実力主義の織田家臣団。「ケア」なんてとても評価されるプレーヤー像ではないし、だからこそ皆にとってそれが「ケアキャラ」として特殊に映ったのだろう。
こんな自分だからこそ、とても疲弊していたのだと思う。私の得意な盛り上げ「キャラ」も出番は業務外、夜が中心だった。もちろん周りには気に入られたし、喜ばれたから楽しい刺激だったわけだが、厄介なことにどっと疲れてしまう自分もいた。刺激を求めるのにものすごく疲れやすい。当時はこんな分析もちろん全くできていなかった。
パート4 エンターテイメントは向いているようだが...。自分が疲れやすいことをまだ問題視していなかった。
次の事例は割と直近。ダイブショップ店長をやっていた時分のこと。サービス業、エンターテイメントには情熱を感じる。ゲストを楽しませるのが好き!場を盛り上げて楽しい雰囲気を作り、個人や小グループに照準を合わせて接客をするのも好きだし得意!ある意味で、今までやったどの仕事よりもしっくり来た。
だが、いかんせん疲れる。これまた当時はその認識を持っていなかった。冷静に振り返れる今は、かなり自分自身のバッテリーとメモリーを消費するタイプなのだと正直にそうわかる。充実していたし合っていることの一つだったと思うけれど、仕事が終わって家に帰るといつもグッタリ。妻からは、もっと家用に力を残してうまくできないのかいとよく聞かれていた。本当に、それが「疲れすぎ」と言うことに気づいていなかった。
パート5 自分が思う「失礼」な人との「じゃんけん」
生まれてから日本を出てみるまでの30年間、繊細さの要素にかける人、デリカシーのない発言で人を傷つけたりする人の「そういうところ」が本当に嫌だった。彼/彼女 の言動にはそんなに明らかな悪影響があるのに、どうして彼/彼女にはわからないのかとずっと不思議だった。
フィリピンに行ったころ一緒に働いていた日本人はそういったタイプだった。自信満々で図太くて、基本人懐こいけど、しばしば短絡的。感情的で結構怒りっぽくて、おっちょこちょいで、そして人の感情への影響を考えない失礼な言動が多かった。自分では礼儀正しいと思っていたはずだが、「失礼」だった。今ならば、「割と繊細な自分」と「割と鈍感な彼」との組み合わせは「じゃんけん」でいえば普遍的な「負け」だと思うだろう。だから今後は彼のようなタイプとは極力「じゃんけん」しない。思えば何度も何度も不要不急の「じゃんけん」をしてしまったものだ。
さて「失礼」とは何か。個人的な定義として、「自分の常識」の中では、自分では決して他人に向けるべきでない、と思っていた「言葉や振る舞い」をすることを「失礼」と判断していたのだと今思う。当時はその同僚に、自分は新卒入社の会社ではこう習った、日本で働くとこのようなシーンがあるよ、と言って教えるように実は「非難」(!?)していたが、一向に効き目はなかった。実は私の娘も天真爛漫だけどややこのタイプに似ていると思って焦っている。親身になって関わると、こちらが勝手に傷つく気がすることも多い。油断していると結構嫌な思いがずっと残る。仮に「俺今傷ついたよ」と本人に説明しても理解されない。ものすごくイラつくことも多かった。不要不急の「じゃんけん」。
繰り返しになるが、ある意味での鈍感力をナチュラルに持つ人の前に、自分のような言うなれば繊細なタイプは「勝手に」傷ついているし、そのことは相手に永久に理解されない可能性が高いのだと今なら思うんだが。
と言うわけで結論の一つとして、どんなに鍛えても繕っても繊細な部分はあるのだからそれでいいだろうと。不要不急の「じゃんけん」を避け、勝手にイラつかない。自分基準で「失礼」な人というのは海外も含めればゴマンといるわけなので、テーマはいかに「じゃんけん」を避けるかという避けテクニックなのでは無いかと思ったりする。「じゃんけん」しなければ「失礼」な人はこの世に存在しないことになる(極論)。
最後に
もう一つ回収しなければいけない伏線がある。今振り返れば過去はいい思い出ばかりでオールオッケーなのかと言うと、判定は否。ダメ。当時嫌なことがあったとき、誰に強いられるでもなく、自分で理由をつけて納得したように思い込んだり、記憶に蓋をしたり、平気な風を装って冷凍保存したりしただけだったこともたくさんあった。これに割と最近まで気づかなかった。「マンモスのステーキ」。冷凍保存がバッチリ効いていて、解凍したらいくらでも食える、つまり当時のまま嫌な思い出が「フレッシュ」なまま保存されていることもちらほら合った。そこの抑圧された記憶に触れるような追体験をうっかりしてしまったりすると、普段は怒らないのになぜか激怒してしまったり、まるでアレルギーのように過剰な反応が出てくることもある。自分にそう言う有能な冷凍庫が付いていることを知っていれば、なぜかわからないけど激怒みたいなバグを万が一にも防ぐことができるだろう。
と言うわけで、本当に自分のことが色々わかってきてよかったなと。こんな自分との気楽な付き合いを工夫してく気持ちになれたことはとても大きな船出。色々気づいた時には、涙がものすごく出て来て正直驚いた。どんだけ抑圧、封印、忘却していたのか。ドラゴンボール『魔風波(まふうば)』か。
では、一体どんなプロセスを経てここの分析にたどり着いたかと言うとまた長いので、今回はここまで。
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