キリスト者ではないと確信できる人々
「・・・人々が、そのように自分自身の下劣さと罪深さ、自分自身の弱さ、自分自身の力の欠けを何ほどかでも見てとっていない限り、どうしてその人々が、自分をキリスト者であると見なす権利があるのか私には分からない。キリスト者ではないと私が絶対に確信できる人々とは、自分で自分をキリスト者にできると思っている人々である。」
『私のたましいは主をあがめ』[4. キリスト者の経験]
(D・M・ロイドジョンズ 著 渡部謙一 訳 いのちのことば社)より
自分で自分をキリスト者にしている人々は、教会内に大勢いる。
それは、神が自分にしてくださったことではなく、自分が何をしたかに重きを置く人々である。
自分がイエス・キリストを信じた、自分が洗礼を受ける決心をし、クリスチャンになる決心をした、‟教会“に行き、礼拝等の集会に出席し、また様々な奉仕をしている、などと。
「キリスト者ではないと私が絶対に確信できる人々とは、自分で自分をキリスト者にできると思っている人々である。」
聖書に照らされて見るとき、私も全くそう思う。