Stigma
ACT5
床に転がったまま自分の非力さを感じていた。時計の秒針の音がコチコチと正確に響き、否応無しに時の流れを告げてきた。
警察に駆け込んで助けを求める事も出来たかもしれないが、亜沙美の言う通り、おそらくは信用してもらえないだろう。
亜沙美を知っているのは自分だけ。その亜沙美にこれから起こるであろう危険を知っているのも自分だけ。なのに、俺はどうしてここに居るんだ?助ける方法を考えなきゃ・・・。それでも考えても考えても、鈍い頭痛を起こすだけで何も思い付かなかった。
寝返りを打ちテーブルの下に視線を移すと、そこに一つ瓶が落ちていた。秋彦はおもむろにその瓶に手を伸ばすと、蓋を開け、中から白い塊を二粒取り出し口に含んだ。そして再び仰向けになると、鈍かった頭痛が次第に痛みを増していった。そして視界の中の天井がぐるぐると回り出したかと思うと、あっという間に意識を失った。
ベージュ色のカーテンを開けると、暗がりに白い肌が浮き上がって見えた。穏やかに眠っているのか、それとも目を覚まそうともがいているのか。秋彦はベッドの傍に立ち、そこに横たわる翔子を、手を握る事もせずにただぼんやりと見ていた。
いくら手を握ってやったってすぐに目を覚ましてくれる訳じゃない。自分に奇跡を起こせる力が無い事くらいもう分かってる。
「何やってんだろうな・・・」
誰に言ったわけでもない秋彦の言葉は、暗闇に吸い込まれるだけで答えを連れて戻って来なかった。秋彦は病室を出て行った。
エレベーターホールにある長椅子に腰を下ろすと、自動販売機が人の気配に気付いた様に唸り声を上げた。その音に混ざって聞こえてくる足音があった。それに秋彦は気付いていないのか、視線を床に落としたまま動かなかった。
足音は秋彦のすぐ傍まで来るとその動きを止め、振り向きもしない秋彦に自分から声を掛けてきた。
「あの、すいません」
その声でやっと気付いた秋彦が顔を上げると、若い看護婦が一人立っていた。
「あの、すいません。失礼ですが、もしかして田崎翔子さんの・・・」
「あ・・・はい、身内です」
「やっぱり。毎日いらっしゃってるからお顔覚えてしまいました。なんだか疲れてらっしゃるようですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、最近あまり眠れなくて。色んな事があり過ぎた・・・」
「色んな事?」
「あ、いや、何でもないんです。ただの寝不足です。気にしないで下さい」
「お仕事とお見舞いとでお疲れなんでしょうね。休憩室のソファーで宜しければ休んでいかれませんか?翔子さんの部屋からも近い部屋ですし」
「あぁ、すみません。でももう帰りますから。有難うございます」
「そのまま車に乗って事故でも起こしたら大変ですよ?こちらです、さ、どうぞ」
秋彦の意思を無視して看護婦は強引に休憩室へ案内した。秋彦は逆らう気力もなく促されるまま看護婦の後についていった。
「寝付けないようでしたらこれを飲んでみて下さい」看護婦は白い錠剤が入った瓶を差し出した。「ごく軽い睡眠薬です。ちゃんとしたお薬ですから、心配しないで下さい。私も疲れた時に飲んでるんですよ」
秋彦が受け取らずにいると、看護婦は瓶をテーブルの上に置き、軽く会釈をしてさっさと部屋を出て行ってしまった。
「睡眠薬か・・・」
秋彦はさっそくその小さな錠剤を一粒口に放り込み、疲れた体をソファーに横たえた。
次の日の朝早く、カーテンの隙間から入り込んできた太陽の光で目を覚ました。秋彦は翔子の顔を見る事なく病院を出て行った。
頭がぼんやりとして体が重い。軽く汗もかいている。きっと久しぶりにぐっすり眠った所為だろうと思った。
秋彦はこの日以来ずっと、眠れない日があると必ず看護婦から貰ったこの薬を飲むようにしていた。みゆきが死んですぐの事だった。
目を覚ましたのは亜沙美が部屋を出てから二時間程経った頃だった。秋彦は自室の床に転がったまま眠ってしまっていた。時計は二十三時を少し過ぎていた。行かなくちゃ。秋彦は全身にびっしょりと汗をかき、重くなった体を引きずるようにして部屋を出て行った。
深夜の街はすっかり車の通りが少なくなっていた。HEAVENへ行くには大きな道路を一度横切らなければならない。一応は信号が青になるのを待ち、車が来ない事を確認してから道路を渡ろうとした。すると、一台猛スピードで近付いてくる車があった。車は秋彦に触れそうなくらい近い距離を通り過ぎて行った。
「あっぶないな」
秋彦は偶然飛ばす車に出くわしたくらいにしか思っていなかった。再び左右を確認し、道路を渡ろうとした時、先程と同じ車が引き返して来た。車はまたも秋彦に向かって突進してきた。
「なんだ!?」
秋彦が全速力で道路を渡り車をかわすと、車も引き返しまたも突っ込んできた。
「うわわわわわ」
秋彦はガードレールを乗り越え転びそうになりながら近くの電柱の陰に隠れた。すると車は止まるどころかそのまま秋彦を追いガードレールに突っ込み、そのまま歩道に乗り上げた。
「ちょっと・・・マジかよ・・・」
秋彦は車が止まったのを見るとそれがまた動き出す前に、HEAVENがある方へバタバタ暴れる様に走って逃げた。
「なっ、なんなんだ今の」
秋彦は自分の身に起きた危険に初めて恐怖を覚えた。足がガクガクと震えているのが分かった。ますます体が重くなるのを感じながら、壁に沿いながらやっとのことで進んで行った。
狭い路地の奥、あと二つ角を曲がればHEAVENが見えてくる。秋彦は力を振り絞り、なんとかHEAVENに辿り着いた。
HEAVENは平日でも相変わらずの華やかさに満ちていた。
二十四時を調度回った頃、秋彦はHEAVENの外を探して回ったが、亜沙美と渡辺は何処にも現れなかった。次に秋彦は店に入り、着飾った若者の群れを掻き分けながら必死で中へと進んでいった。だが、どこを探してもやはり亜沙美の姿は見つからなかった。
そうしているうちに、体はダルさを増し、目眩に襲われ、秋彦はホールの真ん中で膝をつき座り込んだ。周りで踊っていた数人は酔っ払いが転んだとでも思ったのだろうか、誰も秋彦を気にする者は居なかった。だが、それでも汗をかき、呼吸を乱している秋彦の様子に少しずつ数人がざわつき始めた。そしてようやくそのざわめきに気付き、山崎が秋彦を見つけ助けに来た。
HEAVENの二階には事務所が構えてあり、そこは山崎の寝床でもあった。一階の騒々しさとは打って変わって外の音が殆ど聞こえない静かな部屋だった。
山崎は秋彦の体を支えながら部屋の明かりを点け、改めて見たその顔に驚いた。秋彦は疲れきり、最後に会った日とはまるで別人の様になっていた。
「おいあんた、大丈夫か?」山崎は秋彦をソファーに座らせた。「ひでぇ顔だな、何かあったのか?」
「亜沙美を・・・」
「亜沙美?亜沙美がどうかしたのか?」
「探してる・・・」
「なんだ、はぐれたのか?」
「居なくなった・・・。今夜、ここに来たはずなんだ・・・」
「今日はまだ見てないぞ」山崎は秋彦に水を飲ませた。
「来たはずなんだ・・・」
「確かなのか?」
秋彦は頷いた。
「俺の所為だ・・・」
「なんだ、喧嘩か。何か怒らせるような事でもしたのか?」
からかう様に言った山崎の言葉に、秋彦は何の反応も示さなかった。見ると、顔を覆った秋彦の両手がガタガタと震えだしていた。
「なぁ、えらく顔色悪いけど、具合でも悪いのか?」山崎が言った。
「眠れなくて・・・薬貰って・・・」秋彦は上着のポケットから瓶を出して見せた。
山崎はそれを受け取りじっと見ていたかと思うと、瓶の中から白い粒を一つ取り出し、机の上にあったカッターでそれを削り始めた。そして粉になったそれを指先で擦り合わせ、ひと舐めしてから秋彦に言った。
「誰に貰った」
「病院で、看護婦に・・・」
「どんな奴だった?」
「・・・若い感じ」
「診察を受けて貰ったのか?」
秋彦は首を横に振った。
「身内の見舞いに行ったんだ・・・」
「見舞いに行っただけの奴に看護婦が簡単に薬くれると思うか?それも瓶ごとなんて。・・・これ、やばいヤツだぞ。あんた、そんなになってもおかしいと思わなかったのか?」
「眠れないから・・・睡眠薬だって」
「んな訳ないだろその顔で」
「俺の所為だ・・・」
「さっきから俺の所為ってなんなんだよ。何が俺の所為なんだ?」
「・・・・・・」
「シカトかよ。・・・・・・まさか、亜沙美に何かあったんじゃないだろうな?居なくなったってどういう事だ」
「・・・・・・」
「おいっ!」
「渡辺が・・・」
「渡辺?あいつがどうした」
「殺すって・・・」
「・・・・・・」
秋彦は今夜二十四時に亜沙美が渡辺に呼ばれていた事、一人で行かなければ自分が危ない事、警察を呼べば恋人が危ない事を話した。山崎は秋彦の肩を揺すり、顔を上げさせた。
「おい、その事誰かに言ったか?警察には?」
「警察は駄目だ。きっと信じてくれないし、バレたらその方が危ない」
山崎は信じられないといった顔で秋彦を見て、次に壁に掛かった時計を見た。
「もう時間は過ぎてるじゃないか・・・。ここに居ないって事は、もう亜沙美は連れていかれたって事か?・・・それで、何であんたはここに居るんだよ」
「止められなかった・・・。止めなきゃいけなかったんだ・・・!」秋彦は手の平で顔を覆い、もうすぐにでも泣きそうな声で言った。
「泣いてる場合じゃないだろ!?今からでも後追わないと!」
「もう駄目だよ・・・」
「駄目?駄目だって!?何が駄目だよ!!亜沙美にもう何かあったとでも言いたいのか!?おい!!」山崎は秋彦の胸倉を掴んで言った。
「だって・・・みゆきが死んだのだって、渡辺の仕業なんだ、あいつは誰にも気付かれないうちに殺していくんだ、そんな奴にどうやって向かって行けばいいんだよ!」
「知るかよ!何したって連れ戻しに行かなきゃ亜沙美が危ねぇ!」
「無理だよ!通報したってあいつが警察なんだから!」
「関係ねぇだろ!警察が駄目なら俺等が行けばいいじゃねぇか!」
「行って何が出来るんだよ!向こうは行けば亜沙美を殺すって言ってるんだ!」
「行かないからって殺されないなんて保障だってねぇだろ!」
「だから!・・・亜沙美を信じるしかないじゃないか」
「あいつが一人でカタつけると思ってんのか?」
「信じるしか・・・」
「何を信じるんだよ!関わりたくねぇからそんな事言ってるだけだろ!」
「違う!」
「何が違うんだよ!あんたが逃げる為の言い訳にしか聞こえねぇよ!」
「違う!目の前で人が死んだんだ、あんたにはその恐ろしさが分かってないんだ!ここに居る人達だって、皆おかしいよ。簡単にナイフ振り回したりして、皆生き死にを安易に考えてるとしか思えない」
「恐ろしさだと?そんなものとうの昔から知ってるさ。あんたみたいに守られて生きてないからな。死ぬ程危ない目にだって何度も遭ってる。亜沙美だってそうだ。俺達はそういう世界で生きてきたんだ」山崎は、はぁっと短く息を吐いた。「そんなに恐ろしいと思うならさっさと帰れ。邪魔だ。うちに帰ってママにでも甘えてろ」
「なんだと!」
「少なくともあんたが現れるまではあいつもそれなりに平凡に過ごしてた」
「俺の所為だって言うのか?」
「そうなんだろ?」
「・・・・・・」
「怖いだけなんだ、あんたは」
「・・・ああ、そうだよ、怖いよ。俺だって殺されかけたばかりなんだ!」
「何にビビってんだよ?戦ってもいない相手に最初から旗振って、あんたははなから亜沙美を見放してんだ」
「違う!彼女は自分から―」
「自分から行ったから俺には関係ない?」
「違う、そうじゃない!俺だって、出来ることなら・・・。でも・・・震えが止まらないんだ・・・」
「俺は行くぞ。俺が行った所為であんたやあんたの女がどうなろうと俺には関係ねぇからな」
「怖くないのか?どうして簡単に行くなんて言えるんだ?それこそ命を安易に考えてる証拠じゃないか!」
山崎は呆れた顔で息を吐いた。
「言ってろ。あんたの相手してる暇ねぇよ。俺は亜沙美さえ無事ならそれでいい」
「あっ、待って!」
山崎は部屋を出て行った。秋彦もその後を追いかけた。
闇雲に探しても亜沙美の姿は何処にも無く、そこに居たという痕跡さえ何も残っていなかった。
“HEAVEN“の文字を象った蛍光灯が煌々と照らす真夜中を、二人で必死に探した。近くのパーキング、コンビニ、建物の間の狭い路地、目につく所は手当たり次第探した。
時計を見ると既に午前二時を回っている。二人は探し終えてしまった空虚感に苛まれながら再びHEAVENに戻ってきた。
山崎は秋彦を呼び止めた。秋彦は山崎に背を向けたままその声に耳を傾けた。
「おい・・・駅の裏に殆ど廃墟になったビルがある。知ってるだろ?出るとか出ないとか噂があるあのビルだ。聞いた話じゃそこが渡辺の仕事場、ヤクの受け渡しに使われてる場所らしい。そこに行けば渡辺に関する事なら少し位何か分かるかもしれない」
「最初に言ってくんない?それ」
「バカか。そんな分かりやすい場所にいる訳ないだろ」
「まぁ・・・じゃあ、そこへ行ってみよう」
「待て。あそこは渡辺だけが使ってるんじゃない。他のヤバイ奴等も出入りしてる筈なんだ。それこそ生死を安易に考えてるような奴等がな。あんた、それでも平気か?」
「・・・でも行かなきゃ」
「よし、じゃあ行こう。聞け。もし何かあっても自分の身は自分で守れ。俺に何かあっても構うな、ほっとけ、いいな?」
「ああ」
秋彦は平静を保とうとする様に深く息を吸い込んだ。そして二人がHEAVENに背を向け歩き出した時だった。暗がりの中でゴツッと鈍い音がした。山崎が振り返って見ると、秋彦がうつ伏せに倒れていた。
「おい!どうした、しっかりし・・・」
続いてもう一つ鈍い音が、今度は自分の頭のすぐ後ろで聞こえた。激痛に頭を押さえながらも振り返ると、顔の見えない男が一人、手に何かを持って立っていた。
「マジかよ・・・」
山崎は相手の顔を見定めようと、朦朧とした意識でじっと相手を見たが、顔の見えない男はその間も与えず再び何かをを振り上げた。鉄の棒の様な物だ。
山崎もまたその場に倒れた。
どの位気を失っていただろうか。頭が酷く痛む。体も重く動かない。ここは一体何処なんだ?
埃と土の匂いが秋彦の目を覚まさせた。意識を取り戻した秋彦は、目を凝らし辺りを見回してみたが、ズキズキと痛む頭は視界を霞ませはっきりと周りの景色を見せてくれなかった。だが、少し離れたところに人の気配を感じた。誰だ・・・?
「HEAVENの周りをうろついているねずみが居ると聞いて捕まえてみれば・・・君だったのか」
秋彦は霞む目を懸命に凝らしてその声の主を見極めようと努めた。
そこに立っていたのは背の高い黒い服を着た男だった。初めて見る顔だったが、この男が渡辺だと瞬時に分かった。そしてその隣には亜沙美が立っていた。
亜沙美は顔にいくつも痣を作っていた。それでも亜沙美は真っ白なシャツを着せられ、まるで人形の様に美しい姿でそこに居た。
「亜沙美!」
秋彦は亜沙美に駆け寄ろうとするが、すぐにバランスを崩し転んでしまった。そこで初めて自分の両手が後ろ手に縛られている事に気付いた。そして更に、秋彦の背後には少年が二人並んで立っていて、秋彦を縛っている紐を握っていた。よく見ると亜沙美も後ろ手に縛られているらしかった。
「あの少女の様に君にも自分から死んでもらおうと思っていたが・・・薬の量が足りなかったか。残念だな」渡辺の声が低く響いた。
「みゆきの事か?俺が飲んでた薬もお前のか?」秋彦が言った。
「そうだ。苦しまなくて済むように俺があの少女にくれてやったんだ。君も素直な男で良かったよ。何も疑わずに飲み続けてくれた。単純と言った方がいいかな?」
「なに・・・!」
「疑いが無かったからそんなに酷い顔になるまで飲み続けていられたんだろ?」
「くそ・・・!・・・あの人・・・そうだ、山崎さん!」
「友達なら安心しろ。別の場所で眠ってもらってるよ」
「・・・殺したのか・・・?」
亜沙美が渡辺に視線を移した。
「眠っていると言っただろ?後ろの二人と遊んでもらっただけさ」渡辺が言った。
「何処に居るんだ」
「さぁ・・・俺も知らないな」
亜沙美は渡辺に肩に手を置かれたまま動かなかった。
「亜沙美から離れろ」
「頭のいい女だ。自分が幸せになる方法をちゃんと分かってる。俺と居る事が一番の幸せなんだよな?」
「何言ってるんだ!お前・・・亜沙美にも何かしたのか!」
「別に何もしてやしないさ。本人に聞いてみればいい。なぁ亜沙美。お前は自分の意志で俺とここに居るんだよな?」
亜沙美は何も答えない。一瞬眉をひそめたがその表情は硬いまま、それでも美しい人形の様だった。
「これから俺と亜沙美はふたりで旅に出るんだ。誰にも邪魔されない素晴らしい世界にだ。永遠にそこでふたりで生きるんだ」渡辺はうっとりとした様に言った。
「素晴らしい世界・・・?何の事だ」秋彦が言った。
「邪魔が入らないように周りにうろつくねずみを消して、俺に相応しく素晴らしい人間になれるように、亜沙美には長い間ずっと悲しみを与えてきた。見てみろ、この顔。冷たく美しい人形の様で、素晴らしいじゃないか」
渡辺は亜沙美がベルトに挟み隠し持っていたナイフを抜き、亜沙美の頬を少し切った。亜沙美の表情が痛みに歪んだ。
「やめろ!!」秋彦は駆け出そうとするが、後ろから少年に押さえられ身動きがとれなかった。
「傷がついても綺麗なまま・・・。最高の女だ。な?そう思わないか?」
そう言って渡辺は亜沙美に顔を近付け、頬の傷を舐めた。それを見た秋彦は、背中が凍りつく様だった。冷たい予感が全身に走り、一気に目が覚めたような気がした。やはり渡辺は亜沙美を殺してしまう!言う通りに一人で来たからといってそれがなんの保障になるというのだ。第一、言う通りにすれば誰も傷つけないなんて約束はなかった。あってもこの男が律儀に守る筈がない。亜沙美の言う通りだ。秋彦は今更ながら後悔の念にさいなまれていた。渡辺は続けた。
「せっかく目を覚ましたんだ、最後に少し時間をやろう。別れの挨拶くらいさせてやる」
渡辺は亜沙美の背中を押した。亜沙美は渡辺を気にしながら少しずつ秋彦に近付いた。秋彦も亜沙美に近付こうとしたが、後ろに立つ少年達に制止された。
渡辺が向きを変え煙草に火を点けると、体に鎖の様に絡み付いていた渡辺の視線がほどけ、亜沙美は一気に秋彦に向かって駆け込み膝をついた。
「大丈夫?」亜沙美は秋彦の顔を覗き込んだ。
「あぁ、大した事ない」
亜沙美は秋彦の声に安堵し、自分の額と秋彦の額を重ねた。秋彦の額は少し熱を持っていた。
「ごめん」秋彦が言った。亜沙美は少しだけ首を横に振った。「一人にさせないって思ってたのに」その言葉に亜沙美はさっきよりも少しだけ大きく首を振った。秋彦は声を震わせて言った。
「やっぱり無理にでも引き止めれば良かったんだ。君にこんな思いばかり・・・。俺が代わってやれたら良かったのに・・・」
「死ぬなんて思っちゃ駄目よ」
亜沙美は秋彦の言葉に気付き遮った。秋彦もみゆきの時と同じように薬の所為で鬱状態にあるのだと思った。
「あなたはあたしに生きろって言った人なんだから。あなたはちゃんと生きなきゃ」
“生きろ”と言われても秋彦にはどうしたらいいのか分からなかった。その答えを求めるように顔を上げると、亜沙美は真っ直ぐ自分を見ていた。その顔の痣は鮮やかな紫色に腫れていた。
「聞いて。あなたの婚約者はきっともうすぐ目を覚ます。その瞬間に居てあげて。生きている事を一緒に喜んであげて」
亜沙美がそう言うと、「時間だ」と渡辺が割って入ってきた。亜沙美は“さよなら”と言う様に、ほんの少し表情を柔らかく崩してみせた。
秋彦の後ろに居た少年の一人が亜沙美の腕を掴み、渡辺の元へ連れて行こうとした。亜沙美はそれを振り払い自ら渡辺の元へ歩いて行った。背を向けた亜沙美を見ると、その手首には手錠が掛けられていた。
渡辺は紳士的に亜沙美を迎え入れると、亜沙美の腰に手を回して歩き、後ろに停めてあった黒い車に彼女を誘導し、後部座席に乗せた。
渡辺は自分が車に乗り込む前にピンク色の手帳を秋彦の前に投げてよこした。
「少女の忘れ物だ。形見にくれてやる」
そう言うと、反対側のドアから車に乗り込み亜沙美の隣に座った。それを見届けた二人の少年は、物足りないといった様子で秋彦の腹や顔を殴りつけ、秋彦が地面に倒れた後で、縛っていた縄をほどき自由にした。秋彦は倒れたまま窓越しに見えた亜沙美の横顔をただ見送るしかなかった。
渡辺は亜沙美の手錠を外し、人形を飾る様に丁寧に椅子に座らせた。
「これを飲め。これを飲めばお前は世界の中心になれる。空だって飛べるぞ」
渡辺は亜沙美の前に立ち、楕円形のカプセルを一つ差し出した。
「空を飛ぶ?」亜沙美は渡辺を睨んだ。
「そうだ。何でも出来る」
「みゆきに飲ませたのも・・・」
「同じ物だ」渡辺は声を出さずに笑った。カッとなった亜沙美が渡辺の手を払うと、カプセルは何処かへ飛んでいった。
亜沙美は椅子から立ち上がろうとしたが、少し腰を浮かせたところで動きが止まった。渡辺が亜沙美の額に銃口を当て制止していた。そして亜沙美が恐る恐る椅子に掛け直すのを待ってから銃を下ろした。
「あの子の彼も・・・」
「いいや、あの少年は違う。俺の所為ではない。あいつは元々常習だった。何処からか俺の噂を聞きつけて自分から薬を買いに来た。俺は気持ち良く“飛ぶ”手伝いをしてやっただけだ。だがあいつは使い方を間違えた。もっともっとと欲しがってついに幻覚を見始めた。体もぼろぼろになった。それは俺の所為じゃない。欲に負けたあいつが悪い」
「子供に薬を売るなんてどうかしてる!」
「子供だろうがなんだろうが、俺にとっては大事な客だ。差別はしないさ」
「なんてこと・・・」
「そのうちあの少女を連れて来た。いい顔はしなかったな。お前を俺から守ろうとしてたんだ、当然だな。でもボーイフレンドの言う事は聞いたんだ。奴に勧められて少しずつ自分も手を出していった」
「あんたが仕組んだんだ!」
「人聞きの悪い事を言うな。俺から勧めた事は無い・・・だが、少し遊ばせてもらったがな。少年が最後に俺の所に来た時、あいつは薬から抜け出せなくなった事を俺の所為にして怒鳴り込んできた。『俺をこんな風にしたのは誰だ』と言ってね。自分から望んで異常になったくせに。その頃にはもう俺の事も、自分が何を飲んでいたのかも分からなくなっていたんだ。滑稽だったよ、その姿は。滑稽ついでに教えてやったのさ。『お前をそんな風にしたのは亜沙美だ』ってな」
「全部あんたの所為・・・!」
「そうだ。分かってたんだろ?プレゼントだって受け取ってくれてたじゃないか」
「どうして関係の無い命まで奪うの!?そんな権利あんたには無いでしょ!」
「全部お前の為だ」
「何があたしの為!?ふざけんな!」
「俺の最大級の愛おしみ・・・」
「みゆきやあの子達の代わりにあたしがあんたを殺してやる!」
怒りで全身の血が煮えたぎる様だった。亜沙美は制止される前に立ち上がり渡辺に掴みかかった。だが、安易にそれは遮られ反対に殴り倒された。そして再び渡辺の銃口が亜沙美の額に向けられた。
「額に一発打ち込めば痛い思いをしないであの世に行けるだろう。でもそれじゃあ駄目だ」
「何が駄目なの。さっさと殺せばいいじゃない!死んだらあんたを呪い殺してやるから」
「ふたり一緒じゃなきゃ駄目なんだよ。亜沙美、教えてやろうか。俺は全てを手に入れてきた。今じゃこうして人の命をも左右できる立場にまでなってる。俺は選ばれた人間なんだよ」
「くだらない」
「そう思うか?この世は腐っている。人間も国も魂も土も、カオスの中にあり皆生き生きと腐りきっている。欲や見栄が渦巻いて醜いったらないな。だからこそこの世は美しいと思う人間も居るだろうが、俺は、俺には相応しくない世界だと思っている」
渡辺は銃口を向けたまま、亜沙美の前を行ったり来たりしながら続けた。
「でも俺はこの世を治そうとは思わない。わざわざ汚い物に触れて自分を汚す事はしたくない。それに正義程くだらない物はない。今この世に存在している正義なんてものはみんなエゴにすぎない。お前だってそう思っているだろ?」
「嫌なら関わらなければいいじゃない」
「嫌でも関わらなくては生きていけない。お前だって分かってる筈だ。だから守ってくれる仲間達とでさえ浅い付き合いしかしてなかったじゃないか。生きていても淋しく悲しい思いばかり。だからお前は自殺を繰り返した。俺にはその気持ちが痛い程分かる。だから分かり合える者同士、一つお前に提案があるんだ」
「・・・なんなの」
「金や名誉があったって、自分のこの体や魂が汚れてしまってはそれは幸福でもなんでもない。気分が悪いだけだ。それに意味も無く生き、無駄に死んでいくだけの世界に住んでいたくはないだろう?だから生きる場所を変えようと思うんだ。現世に生きていられないなら生きる場所を変えてしまえばいい。俺達が永遠に幸福に生きていられる場所。そんな場所があると思うか?」
「・・・?」
「あるんだよ」渡辺は天井を指差した。
「天国だ」
「天国・・・?」
「そう。醜い者は全て排除され、美しい者だけが棲める場所。俺達だけの楽園」
「あたしには関係ない」
「あるさ。俺の願いを叶える為に、お前は必要なんだよ」
「願い・・・?」
「そうだ。残念だが、天国へ行く為には肉体は置いていかなければならない。つまり、一度死ぬって事だ。今のまま生き続けたらお前も年老いいずれ醜くなる。そうなる前に、美しい今の姿のまま天国へ行こうじゃないか。そうすれば若いその美しさを保ったまま永遠に生きていられる。そしてお前は救われる」
「何言ってるの・・・」
「俺の最期を飾るに相応しい死に様。それは俺の究極の願い。『愛する者と共に死ぬ』。二人の体は寄り添いながら焼かれ、仲良くあの世へ灰となって昇っていく・・・。亜沙美。お前は俺の道連れだ」
亜沙美の体が凍りついた。
「『愛する者』ですって・・・?」
「そう。愛するお前を殺して、俺も死ぬ」
「狂ってる」
「そう思うか?」
「狂ってる」
「・・・そうかもな」
渡辺は銃口を向けたまま再び亜沙美の目の前にカプセルを差し出した。
「お前に拒絶する事なんて出来ないぞ?俺はお前の代わりにあの男を殺すかもしれない。これは痛みを感じなくて済むように飲んでおくんだ。今すぐ命を奪うものじゃあない。さぁ」
亜沙美の頭に秋彦の顔がよぎった。渡辺の手からカプセルを口で受け取った。噛み砕くとすぐに口の中に苦味が広がった。そして心臓が高鳴りその場に両手をついた。その瞬間は伏せてしまったものの、亜沙美の目はしっかりと渡辺を見ていた。目を離したら秋彦やまた他の誰かに何かするかもしれない。自分が意識を保っていられる間は、決してこの男から目を離さない。でも、なに・・・・・・この感覚、知ってる・・・。
渡辺は亜沙美の額に銃口を向けたままでいた。そのうちカチリと音がして撃鉄が下ろされたのが分かった。そして次の瞬間、目の前で引き金が引かれた。
殴られた痛みが引き、やっと体が動いた。朝日を浴びる前の街は、埃を落ち着けひんやりとした空気で景色を蒼く見せていた。秋彦はその中を、溶け込んでいきそうに歩いていた。
目標が定まらないまま行き着いた場所は亜沙美のアパートだった。手にはピンク色の手帳を持っていた。表紙の隅に丸い文字で“miyuki”と書かれてあった。秋彦は錆びた階段に寄りかかりながら手帳を開いた。
『あさみちゃんへ
直接あやまれなくてごめんなさい
きっともう会えなくなるから
あたしはあさみちゃんを裏切った
渡辺のことはもちろんキライ
でも彼氏のことはどうしても好きで
きらわれたくなくて、ことわれなくて
あたしもやった
とっくの前から彼はおかしくなってた
なぐられたりもした
あたしはやめさせるつもりだった
でもかわいそうで、同じ思いをしてあげたくて
あたしもやった
自分がこわれていくのがわかった
気づかれたくなくて、だいじょうぶなフリしてた
彼を殺したのはあたしだった
でも何もおぼえてないの
いつの間にか目の前に渡辺がいることがあった
さいみんじゅつかけられてるみたいで
気持ち悪いの
それでも、頭がぼーっとしてても
絶対あさみちゃんのところには行かせないって思ったよ
もう会いにいけないかもしれない
字も書けなくなるかもしれない
だからその前に
守れなくてごめんね
一緒にいれなくてごめんね
あさみちゃん、ごめんね
大好きだよ
みゆき』
手帳の中に、亜沙美とみゆきが一緒に写った写真が一枚入っていた。姉妹の様に寄り添うその笑顔はとても可愛く、悲しかった。
秋彦は胸のポケットに手帳を仕舞うと、アパートの階段を上っていった。
赤く染められた亜沙美の部屋は、数日前まで居た主人の存在を忘れ、初めから誰も居なかったように綺麗に片付けられていた。あの大家がやったに違いない。またひとつ、亜沙美の居場所が消えたのだ。そこは悲しくもなく、淋しくもなく、ただおぞましい喪失感だけが漂い、覆いかぶさる様に秋彦を取り込んだ。
一応は部屋を見渡し、そこに亜沙美が居た痕跡が残されていない事を確かめると、秋彦はその光景を仕舞い込む様に玄関のドアを閉め、部屋を離れた。
階段を降り、狭い道を淡々と歩いていた。歩いているうちに、段々とその速度は速まっていった。そしてついに耐え切れなくなった様に足を止めた。
ポケットに突っ込んだ手に薬の瓶が当たり、それを取り出し手の平で転がした。ヤバイと気付く前にもう半分は飲んでしまっていた。残りの半分が、転がる瓶の中でカラカラと音を立てた。すると途端にさっきまでの喪失感が激しく込み上げ、胃の中から吐き気となって込み上げてきた。手で口を覆い、それを抑える様に奥歯を食い縛った。そして堪えたまま空気を飲み込むと、自分に対する怒りがじわじわと体の中を熱くしていくのが分かった。秋彦は力一杯コンクリートの壁を目掛けて瓶を投げつけた。ガラスの破片と白い悪魔が辺りに散らばり、驚いたカラスが羽音を立てて飛んで行った。
それから数時間も経たないうちに、秋彦は山崎に教えられた“駅裏の古いビル”の前に居た。幽霊が出るという噂が立つのも頷ける、不気味な佇まいのビルだった。
さっき殺されるかもしれない状況にいたのに、また亜沙美を探そうとしている。我ながらしつこい。粘着質。亜沙美にウザがられるのも当然だ。俺ってストーカーの素質あったりして。そこは渡辺にも負けてないかも?
秋彦はビルを見上げた。心辺りはもうここしかない。居てくれよ。秋彦は祈る様に入り口の扉を開けた。
重いガラスの扉を押していくと、埃臭い空気が流れてきた。日陰に位置している所為もあってか、中はカビ臭く、ひんやりとしていて肌寒いくらいだった。
用心深く周りを確かめながら入ると、入り口のすぐ傍に階段があった。耳を澄ましても人が動くような物音は聞こえなかった。
一階を見て回り、人の気配が無い事を確かめると、次に埃の溜まった階段を上っていった。
二階に上がると、踊り場からすぐドアが見えた。足音さえ気付かれないよう注意しながら近付き、ドアに耳を付けた。耳を澄ましてドア越しに部屋の中の様子を伺ってみるが、大きな物音は聞こえない。だが微かに何かが動く音が聞き取れた。秋彦は息を吐き、呼吸を整えてからちっちゃく『せーの』と言いながら勢い良くドアを開けた。そこに渡辺が居ても、飛び込んでその胸倉を掴んでやろうと思った。
バタンッと勢い良くドアを開けた。目を見開いてそこに居る筈の渡辺と亜沙美の姿を探した。だが実際そこにふたりの姿は無く、代わりに大きなカラスがガラスの無い窓枠に留まり、不思議そうにこちらを見ていた。そして途方に暮れた様子で部屋に入ってくる秋彦を見て、羽をばたつかせ、慌てて何処かへ飛んで行った。
静かになった部屋を見ていた秋彦は、薄暗さに慣れてきた目を細め、やっと見えてきたものに呆然と立ち尽くした。
朝日が入る窓枠の下、丁度影になって一瞬では見えなくなっていた所に、頭を垂れた山崎が壁にもたれて座っていた。みゆきを思い出させる様に、山崎もまた傷を負い、無残にも顔を背けてしまいそうな程大量の血で服が染まっていた。
「山崎さん!山崎さん!」
秋彦は山崎の体を揺すり何度も呼び掛けた。そのうち山崎は声を漏らし、秋彦に気付いた。
「あんた・・・無事だったのか。ここは・・・?」
「駅の裏のあのビルです」
「そうか・・・。亜沙美は?」
「・・・」
「見つけたのか?そうなんだろ?」山崎は秋彦の胸元を掴んだ。
「会いました」
「それで?どうした?」
「渡辺と消えました・・・。また、連れ戻せなかった・・・」
「そうか・・・」山崎は今度は秋彦を責めなかった。苦痛に顔を歪めながら秋彦に掴まり自ら体を起こした。そして「はぁ・・・」と呼吸を整える様に息を吐き言った。
「なんであの男が亜沙美を狙うか分かるか?」
「薬を売ってるところを見たから」
「それもあるだろうが、そんな事奴等にとって大したダメージにはならないだろう。ただの口実だと俺は思う。本当はもっと前から亜沙美に目を付けてたんだ」
「そういえば、みゆきが渡辺はストーカーだって」
「そうとも言えるかな。まったく、妙な偶然ってあるもんだな。似てるらしいんだ、あいつ」
「誰にです?」
「渡辺の昔の女」
「亜沙美が?」
「ああ。まったくそっくりって訳でもないんだが、なんとなく面影が似てるらしい。その女にも噂があってな。渡辺がヤク漬けにして死なせたって話だ。その女の他にも何人か渡辺と近い所に居た女がヤク漬けでぼろぼろになった状態で保護されたって話もある」
「亜沙美も薬漬けにするつもりなんですか?」
「それは分からない。でも唯一死んだ女は渡辺が本当に惚れた女だったんだ。だから手元に置いておきたくてヤク漬けにした。結果死んじまったがな。だから似てる亜沙美を見つけて今度こそはと思ったんじゃないか?」
「昔の恋人の面影を求めて亜沙美を?そんな・・・」
「俺も店の連中もそれを知ってて亜沙美を気にしてた。亜沙美には言わなかったがな。でも守るったって限界があったんだ。実際逃がす以外は何も出来なかった。亜沙美以外の目的が何なのかは知らないが、こうなったらもう絶対安全なんて有り得ないだろう。渡辺は何か言ってたか?」
「・・・旅に出るって。素晴らしい世界にふたりで行くんだって」
「素晴らしい世界?」
「永遠にそこで暮らすって」
「・・・奴も一緒に死ぬ気なのか?」
「え?」
「亜沙美はその道ずれなのかもしれない」
「そんな!そんな事あるわけ・・・あの男が自殺なんてするでしょうか?」
「そのぐらいの事やるだろ。人も自分も関係無いんだ。自分が思った事が全て正しいんだ。だから余計に危ないんだ。ああゆう奴は考えを曲げない。自分が神様だから。自分の考えは神の考えで絶対なんだ」
「探さなきゃ。でも、他に何処に行けば・・・」
「あんた、車あるか?何処でもいいからもう一度思いつく場所を全部回ってくれ。ここで考えてたって時間の無駄だ」
「その前に救急車呼ばなきゃ」
「構うな」
「無理でしょ!」
「少し切られただけだ。直に血は止まる。こんなに喋ってんだ、怪我人に見えるか?」
「立派な怪我人にしか見えません!」
「怒るなよ。俺は警察に行く。信じてもらえるか分からないが、もう俺達だけじゃ無理だ。あんたは先に行ってくれ。ぼやぼやしてる時間は無いぞ。さぁ、早く!」
「でもっ」
「亜沙美を死なせたいのか?」
「イヤです!」
「だったら早く行け!」
秋彦は山崎に押されビルを飛び出し走った。でも、何処に行けってんだよ!思い付く場所なんてもう無いよ!夜が明けてからもう随分時間は経っている。亜沙美はもう・・・いや、そんは筈ない、約束通りに行ったんだから、俺が助けに行くんだから!一瞬のうちに自分の頭は葛藤し、なんとかそれを振り払いながら走った。それでも心はなぜか絶望を囁いていた。
ACT6→ https://note.com/lognote_pt/n/n66ed3882dfc7