Stigma

ACT6
 
『亜沙美ちゃん』
「・・・?」
 みゆきは優しく亜沙美に微笑みかけた。
「みゆき・・・?」
『早く帰んなきゃ、またあきちゃんが探してるかもよ?・・・あたしみたいになっちゃ駄目だよ』
「え・・・?」
『ね?亜沙美ちゃん』
 みゆきはそう言い残し、姿を消した。
「みゆき!」亜沙美は飛び起きた。夢・・・。
 肌に触れる風に、現実に呼び戻された様な気がした。辺りは暗かった。ここは何処・・・?点々と灯る街灯は辺りを見渡すのに十分な明るさは持っていなかった。あたしは・・・銃で撃たれて、それから・・・?
 
 目の前には渡辺が居た。突き出された銃口が額に照準を合わせた。爆音と共に火薬の匂いを嗅ぎ、その瞬間に死んだと思った。
 それからの記憶が無い。どうやら気を失っていただけのようだ。
 
 引き金を引く瞬間、渡辺は銃口を逸らした。その為銃弾は亜沙美の頭を貫通する事なく、額を少しかすめただけで飛んで行った。至近距離で撃たれた為、その衝撃で亜沙美の体は後ろに弾き飛ばされ倒れた。そしてそのまま気を失った。
 渡辺は倒れた亜沙美の髪を掴み、顔を上げさせた。そして膝に体を乗せ亜沙美の口にまたカプセルを一つ含ませると、そっと囁きかける様に言った。
「今度こそふたり・・・ずっと一緒に・・・」
 それから亜沙美は連れ出され、今は浜辺に停められた車の中に居た。
 車の窓は開けられ、そこから入り込む風から潮の香りが嗅ぎ取れた。頭がズキズキと痛む。亜沙美はその痛みを振り払う様に頭を振った。窓の外を見ると、暗がりの中に誰かが立っているのが見えた。その姿の正体は確かめるまでもなく分かった。亜沙美は車を降りた。
「目が覚めたか」
 影は振り向きその顔が徐々に見えてきた。分かってはいるものの、改めてその顔を見ると、ねっとりとした嫌悪感が体を這う様に襲ってきた。
「見てみろ。赤い月だ。膨れ上がって気味が悪いな。きっとこの世の膿を吸い過ぎたんだ。煌々と燃える赤い月の下・・・それもまた美しいか」
 渡辺は亜沙美に背を向け海を見ていた。
「さて、どうやって死のうか。なるべく形が綺麗に残る方がいいかな。となると、爆破や飛び降りは駄目だな。ガスか、薬か、それとも海に浮かぶか・・・夜の海なら静かでいいかもしれない。形を気にしないって言うなら、生きたまま火に飛び込むのもいいな。もがく姿もそれはそれで美しいかもしれない。・・・!?」
 背中に激痛が走り、渡辺は背中を反らせ、そして砂の上に膝まづいた。背中の上を何かを探す様に一生懸命に撫で回した。見ると、その手にはべっとりと血が付いていた。何が起こったのか分からないままで振り返ると、暗闇の中に光るナイフを握った亜沙美が居た。
「何をしてる・・・?お前、今俺に何をした?」
 渡辺は起き上がり亜沙美に近付いた。
「あんたなんかと死んでたまるか」
 亜沙美はナイフを突き出していた。
 渡辺は一歩一歩亜沙美に近付きながら血の付いた両手を伸ばしてきた。亜沙美は更にその懐目掛けてナイフを突き刺した。
 渡辺は声を上げずに再び崩れた。亜沙美は血塗れのそのおぞましい姿に体が固まり、後ずさりをするのもやっとだった。だが崩れた渡辺が腕を伸ばし亜沙美の足に触れた途端、弾かれた様に亜沙美はその場を逃げ出した。必死ながらも夢中になって車に戻りカバンにグシャグシャに詰めていた一也のシャツと渡辺の銃を盗んでいった。
 
 砂浜を抜け車道に出ると、亜沙美はそのまま街のある方を目指してひたすら走った。途中、着せられていた真っ白のシャツを脱ぎ捨て、一也のシャツを羽織った。そうして少しでも渡辺の目をあざむかなければと思った。同時に、一也が守ってくれる気もした。銃はベルトに挟んでシャツで隠した。
 幸い車の通りがなく街灯も少なかった為、誰にも亜沙美が返り血を浴びている事を知られずに済んだ。渡辺の死体も朝にならなければ見つける者はいないだろうと思った。
 それでもやはり完璧な安全を得られたわけではなく、恐怖心は消えない。追って来るのではないかという不安から、何度も何度も後ろを振り返りながら走り続けた。
 途中、道の脇に潮風で錆付き崩れかけている小屋を見つけた。周りは伸びきった草が囲んでいて外側からはその姿は見難くなっていた。亜沙美はすぐにその小屋の中に隠れた。
 
 ガタガタと音を立てながら木の戸を開けた。中には何に使うのか分からないもの・・・古い農具や鳥カゴ、はしごやタイヤの無い自転車等、海とは関係のなさそうなものばかりがあった。よく見ると、入り口のすぐそばに申し訳なさそうに救命用の浮き輪らしき物がちょこんと立て掛けてあった。亜沙美は砂袋が積まれているのを見つけると、そこに隠れる様に座り携帯を取り出した。
 
『はい、もしもし?』
「・・・」
『誰だ?』
「あたし」
『亜沙美か!?おい、今何処に居るんだ』電話の相手は秋彦だった。
「分からない。でも海の近く」
『海?海って、海のどの辺だ?近くに何か無いか?』
「暗くて・・・海沿いの道路の脇に古い小屋が並んでて、今その中に居るの」
『小屋?小屋か、分かった』
「ここから街に向かうから、車で拾いに来て」
『いや、待ってろ。隠れてた方がいい。探してやるから、今から行くからそこ動くな、分かったな?』
「あたし・・・」
『何だ?』
「渡辺、刺した」
『・・・・・・そこ、動くなよ』
 秋彦は海を目指して車を走らせた。
 
 亜沙美は息をする音も聞き取られないよう両手で口を覆い、なるべく体を小さくして隠れていた。波の音に混じって最初に聞こえてくるのは秋彦の足音か、それとも渡辺の足音か。じっと耳を澄まして、波と海風の音に紛れて聞こえてくる音を聞き分けようと努めた。集中が途切れそうになると、大きく息を吐いて、両手をきつく握った。
 少し落ち着きを取り戻すと、渡辺を刺した時の感触が手の平に蘇ってきた。何か柔らかい物を刺す様にまるで手応えが無かった。怖くはなかったと思う。でも今になって怖くなってきた気がする。亜沙美は手に付いた血を膝に拭った。だが既に皮膚に染み込んだそれは、擦っても擦っても取れなかった。
 そして、もう一つ思い出した事があった。渡辺にカプセルを飲まされた時に感じたあの感覚。あれは間違いなく、一也と過ごす夜に感じていたのと同じ感覚だった。
 
 いつも二人きりで居る時に、一也が面白半分で作ってくれたオリジナルのカクテル。赤色がとても綺麗で、すぐに飲んでしまうのがもったいなかった。すぐになくならないようゆっくりと飲み干すと、口の中に少しだけ苦味が残った。それが何の味なのか、聞いても教えてくれなかった。心臓が打ち始め、目眩が起こった。それは強いアルコールの所為だと思っていた。
でも違った。今分かった。あれは薬の味だったんだ。一也があたしにも飲ませてたんだ・・・・・・・・・・・・。
 浮かれていたから気付かなかったんだ。へらへらと浮かれた同世代の人間をバカにして軽蔑していたのに、あたしも同じだったんだ・・・・・・。
 
 一人だけの長い時間が過ぎて、やっと遠くの方から車のエンジン音が聞こえてきた。その音は小屋を少し過ぎたところで停まり、すぐにバタンとドアが閉まる音を立てた。
 来た!亜沙美は小屋を飛び出し道路へ出て行った。だがそこには見慣れない車が一台停まっているだけで、中から降りて来たのは秋彦ではなく、今時の流行りなのだろうか、汚い金髪と汚い服の若いカップルが降りてきた。
深夜にドライブでもしていたのであろうその二人は、暗がりから飛び出してきた亜沙美に驚き、そして不審そうな顔でこちらを見ていた。
「やだなに~?気持ちワル~」
 いかにも頭の悪そうな女の腹立たしい鼻声で亜沙美は我に返った。注意深く用心していたつもりが、車の音に反応しすぐに飛び出してしまった。もしこれが渡辺だったら・・・。亜沙美は急に恐ろしくなり、急いでその場から走り出した。
 もしあいつらが渡辺の仲間だったら?他にも誰かが見ていたら?渡辺に居場所を教えてしまうかもしれない。じっとしていたらいつかは見つけられてしまうかもしれない。そう思った亜沙美はすぐに冷静さを無くした。秋彦が来るよりも先に渡辺に追いつかれてしまう!そんな思いがみるみるうちに亜沙美を覆い尽くし、再び街がある方へと逃げる様に走り出していた。
 
 走り続けていたその間、亜沙美の中で秋彦の存在は消え、完全な恐怖だけが重く体にのしかかっていた。
 息が苦しく喉や肺が焼ける様に痛い。そのうち同じ速さでは走れなくなった。だが亜沙美は足を止めずに、渡辺の居る場所から遠ざかる事だけを考えて走り続けた。
 その時、また一台の車がこちらに向かって走って来るのが見えた。既に疲れきった足は言う事を聞かず、逃げる事も出来なかった。亜沙美は車から降りてくる人影にせめて隙を見せないように、じっと睨んで身構えた。
 中から一人男の様な影が降りて来た。バタンと急いでドアを閉めると、迷わずこちらに向かって走ってきた。見つかった・・・。
 
「亜沙美!」降りてきたのは秋彦だった。
「あき・・・」その声が聞こえた瞬間、亜沙美は全身の力が抜けた様にその場に座り込んだ。そうだ、この人を待っていたんだった・・・。
 秋彦は亜沙美が立ち上がるより先に駆け寄り、そのまま倒れ込みそうな亜沙美を抱きとめた。
「亜沙美、無事だったか、良かった」
「うん、平気」
「渡辺は?」
「分かんない。でも、あたしがやった」
「そうか・・・」
 亜沙美に回した腕に力が入った。亜沙美も秋彦のシャツを掴みたかったが体中がだるく、腕に力が入らなかった。その手にはナイフを突き出した時の感触がまだ残っていた。
「全部あいつだった・・・みゆきも、あの子の彼も、一也も、全部あいつの所為だった!・・・あたしも、同じだった・・・」
「同じって?」
「あたしも、一也に飲まされてた・・・でも気付かなかった、あたしがちゃんと気付いてたら!・・・あなたまで巻き込んで・・・・・・」
「君の所為だとは思ってない。俺は自分の意志でここまで来たんだ」
「・・・あいつがよこした木箱の中に鍵が入ってたの。一つは一也のナイフの仕掛けに合った。もう一つはあなたの部屋の鍵だった・・・」
「・・・知られてたって事か」
 亜沙美は頷いた。
「写真たてに赤いのが付いてたのはその所為・・・。あいつ、あそこに居たのよ。本当にあなたの婚約者にも何かするつもりだったのよ」
「そうか・・・」
 何が“そうか”なのか自分でも分からなかった。何と答えるのが正しいのか分からなかった。ただ、次の言葉が出て来なかった。
「ねぇ、今からでも逃げて」
「死んだんじゃないのか?」
「死んだと思う。あたし、二度も刺したから。でも分からないの。追われてる様な気がしてて、ずっとそれが消えないの」
「大丈夫だよ、逃げなくても。傷を負ってて動ける筈ない。それに、今頃山崎さんが警察に行ってくれてる」
「警察?警察は駄目だって言ったじゃない、絶対信じてくれない!」
「俺達だけの力じゃもう無理だ。山崎さんも言ってた。警察の手でも借りないといつまでも終われない」
「でもっ」
「山崎さん、酷い怪我してたんだ」
「まさか」
「大丈夫、生きてるよ。きっとあの姿を見れば警察だってさすがに信じてくれると思う」
「無理よ」
「大丈夫、信じよう」
 亜沙美は根っから警察を信用していなかった。渡辺の様な奴が他にも沢山隠れている、いや、その殆どが渡辺と同じに違いないと思っていた。
 秋彦の携帯が鳴り出した。バイブの唸りに気付いていても、初めは出ようとしなかったが、観念したように上着のポケットから取り出し、画面に表示された名前を見た。そしてそのまま出ることもせず再びポケットに仕舞った。
「分かった・・・。戻るよ。確かめてくる」亜沙美が言った。
「何を?」
「あいつが死んだかどうか」
「何言い出すんだよ」
「確信持てるものがなきゃあたし耐えられないから、こんなの」
「馬鹿な事言うな!」
「やっぱりあたしが終わらせなきゃ・・・ごめんね・・・」
 亜沙美は立ち上がろうとした。秋彦はその腕を掴み止めた。
「駄目だ、行かせない。例えあいつが連れ戻しに来たって今度こそ君を渡さない」
「あたしは・・・今度こそ守らなきゃ」そう、残っている仲間を、そして秋彦を。全てを元の日常に返して、私は望み通りに・・・。例えそれが他人の手によるものだとしても・・・。
「それならふたりで行こう」秋彦が言った。
「え・・・?」
「渡辺が生きてたら、俺も君と同じになるよ」
「何言ってるの!?そんな事許される訳無いじゃない!」
「君が山崎さんや警察を信用出来ないって言うなら仕方ない。そうして終わらせよう。君一人じゃ簡単に殺されてしまうかもしれない。でもふたりでならなんとかなるかもしれない。だから俺も一緒に行く」
「駄目よ!」
「ならもっと俺たちの事を信じてくれよ。そうすればきっと終われるから」
「終わったって・・・どうしていいか分からない・・・」
「後からゆっくり考えればいい。生きてさえいればいいんだよ。死にたいなんて言わないで」
「・・・・・・」
「だから帰ろう?な?」
「・・・・・・」
「亜沙美?」
「・・・・・・・ええ」
“ええ”と答えた亜沙美の声に安堵の色は無く、秋彦の耳に低く響いた。
 秋彦が亜沙美を見ると自分の肩越しに何かを見ている。そしてその目は遠くを睨んでいた。その視線の先を確かめる様に、秋彦は亜沙美の視線を追って自分も振り返った。
 その先には渡辺が立っていた。
 
 渡辺の手に銃が握られているのを見つけると、亜沙美はナイフを取り出しかばう様に秋彦の前に出た。視線はしっかりと渡辺を捕らえ、決して逸らさないでいた。そして秋彦が少しでも動くと体で制止し、自分より前に出れないようにした。
「亜沙美、随分物騒な物を持ってるじゃないか・・・先に取り上げておくんだったな」渡辺が言った。
「しぶといわね」
「お陰様で。甘いんだよ。殺すつもりならもっと深く刺さないと。お前の弱さが出たな。それとも優しさか?」
 渡辺がじりじりと近付いてきた。すると今度は秋彦が亜沙美をかばう様に前に出た。
「邪魔だ」渡辺は手で虫を払う様一ミリの躊躇も無く秋彦目掛け発砲した。
「うわぁぁぁ!!」銃弾は秋彦の肩に当たり、秋彦は傷口を押さえながら激痛に転げ回った。
「あきっ・・・7!!」亜沙美はすぐに秋彦に駆け寄ったが、触れる事も出来ないくらいに暴れ苦しむ秋彦にはどうする事も出来ない。傷口から飛び散った血は亜沙美の顔にも付いていた。
「このぉぉっ!!」亜沙美は渡辺に向かって走り握り締めたナイフで切りつけた。渡辺は繰り返し振り上げられてくるナイフを嘲笑うかの様に軽々と躱した。
 亜沙美はナイフを持ち替え渡辺に突き刺そうとした。だが腕を掴まれあっさりと止められてしまった。
「いい加減にしろ」渡辺はそう言うと、ナイフを取り上げ逆に亜沙美を切りつけた。亜沙美は間一髪のところで避けたものの、刃先は腕をかすめ、切れた服の隙間からは血が滲んできた。
「これが昔の男の形見か?くだらないな。いつまでもこんな物にしがみついているからお前は孤独から抜け出せないんだ」渡辺は血の付いたナイフにちらちら街灯の光を反射させながら言った。
「返して」亜沙美が言うと、渡辺は自分の足元にナイフを落とした。亜沙美がそれに飛びつくと、渡辺は亜沙美の髪を掴み自分の元へ引き寄せた。近付いた渡辺の顔は、目だけがギラギラと輝き、亜沙美の体はそのおぞましさに引きつるようだった。
「何故俺を遠ざける。お前を受け入れてやろうというのに、お前は今でもそうやって死んだ人間を思っている。忘れろ。いつまで思っていても死んだ人間は帰ってきやしないんだ」
「離して!」
「俺以外!お前を理解出来る人間は居ないんだよ!来い!亜沙美!」
 渡辺は嫌がる亜沙美の髪を掴んだまま無理矢理その場から引き離すと、今度は亜沙美の首に腕を回しその頭に銃を突きつけた。
「死んで俺の物になれ」
 亜沙美は自分に巻き付く渡辺の腕から逃れようと必死でもがいた。だがその力は及ぶ筈もなく、抵抗する程渡辺の腕は亜沙美を強く締め上げていった。
「楽にしてやる。ちょっとだけ先に逝って待っててくれ。あの男を殺した後で追いかけてやるからな」
 渡辺が勝ち誇った様に笑みを浮かべ引き金を引こうとした時、亜沙美は渡辺の腹、丁度刺した傷の辺りを思い切り衝いた。
「がぁぁぁっ!!」渡辺は絶叫しながら亜沙美を突き飛ばし、銃で亜沙美の顔を殴った。
 亜沙美はすぐに起き上がり銃を奪おうと渡辺の腕に掴みかかった。
 渡辺は抵抗するが、さすがに今度は亜沙美が優勢だった。が、亜沙美が渡辺の手を脇に抱えた時、渡辺が引き金を引いた。
「ああぁっ!!」銃声と、その場の空気を震わせる程の亜沙美の叫びが辺りに響いた。秋彦が顔を上げると、亜沙美は血に染まった脇腹を押さえ、地面をのたうち回っていた。
 渡辺はすぐに立ち直り、うずくまる亜沙美の腹を蹴り上げた。亜沙美は再び絶叫し、息をする事も出来ず激痛に意識を失った。渡辺は倒れた亜沙美の頭に再び銃口を向けた。
「最後だーっはははははははははははは」渡辺は壊れたおもちゃの様に抑揚なく笑った。
「亜沙美っ!!くそぉっ!!」秋彦は渡辺に向かって走り体当たりをして渡辺を突き飛ばした。銃は渡辺の手を離れ何処かへ飛んでいった。秋彦は倒れた渡辺にまたがり何度も顔を殴った。それでも渡辺は弱るどころか、傷を負った秋彦の肩を指が食い込む程に強く掴んできた。
「うあぁぁぁ!!」秋彦は痛みに絶叫した。
 渡辺は肩を掴んだままで、秋彦を地面に押し付けた。
「お前に亜沙美が解るか?お前にあいつが理解出来るか?助けたところであいつはお前に何も返さないぞ?感謝だってしない。あいつには心が無いんだ。きっとお前も置き去りにして一人で逃げるぞ?」
「そんな事ない!解ってないのはお前だ!」
「あいつはなぁ、一度男を見殺しにしてるんだ。あいつをかばって奴の男は死んだんだ。あいつは男を助けなかった!見捨てたんだ!そんな奴を助けたところでお前に何の得がある?あんなごろつきに関わるからお前までこんな目に遭ってるんだ!大人しく俺によこせばいいものを!」
「誰がお前なんかに!」
 渡辺は秋彦の胸元を掴み体を引き起こした。
「突然現れたお前なんかにあいつをくれてやるもんか!やっとここまで育てたんだ、俺があいつを!ずっと見てたんだ、ずっと待ってたんだ!この日の為にずっと、孤独も憎しみも悲しみも十分に与えてきたんだ!邪魔するなぁ!!」
 そう言って渡辺は秋彦を地面に叩き付けた。秋彦は渡辺の足にしがみついた。そしてなんとしてでも止めようとしたが、ガツンガツンと踏み蹴られ、手が離れてしまった。そして渡辺に銃を拾われてしまった。
「雑魚がぁ」渡辺は地面を這う秋彦に銃を向けた。そして再び引き金を引いた。
 銃声が響き、火薬の匂いが立ちのぼった。。
 
 一瞬全てが沈黙した。
 そこに倒れていたのは亜沙美だった。
「あ・・・アサミ・・・」
 秋彦はやっとで体を起こし、目の前に倒れている亜沙美の体を揺すった。
「亜沙美!亜沙美!!」だが何度呼んでも亜沙美は目を閉じたまま動かなかった。
「あー・・・っははははは。かばったか。馬鹿な奴だ」渡辺が言った。「俺に殺され、自分から俺の物になった。利口だなぁ」」
「亜沙美、おい亜沙美!」
 何度呼んでも亜沙美は目を開かない。秋彦は亜沙美のナイフを拾い、叫びながら渡辺目掛けて走った。渡辺は秋彦が振り上げてくるナイフを不気味に笑いながら躱した。
 一瞬、渡辺の表情が歪んだ。刃先が渡辺の頬をかすめていた。
 渡辺の頬に出来た細い傷から血が流れてきた。渡辺は動きを止め、手の甲でその血を拭うと笑いながら舐めた。それを見た秋彦はナイフを構えたままで一瞬我に返った。全身の血が引いていくのを感じた。刺すのか?殺すのか?俺が?人を?秋彦は頭を一瞬にして駆け巡った言葉にそれまでの勢いを失った。
 渡辺はその迷いを見逃さず秋彦に殴りかかった。そして更に倒れた秋彦を何度も何度も蹴り上げた。秋彦がうずくまり起き上がれなくなったのを見て、渡辺は亜沙美が倒れている方へ行った。
「待てっ・・・」秋彦は渡辺を止めようと腕を伸ばすが、渡辺はどんどん亜沙美に近付いていく。もう駄目か・・・秋彦がそう思った時、渡辺の足が止まった。その視線の先で、倒れていた亜沙美が動きだしていた。両手を地面につき、全身の力を振り絞るようにして体を起こしていた。
「亜沙美っ・・・」秋彦は地面に這いつくばりながら腕を伸ばすのが精一杯だった。
「しょうもな・・・」体を起こした亜沙美はそう言うと、ゆらりと立ち上がった。そして振り返り離れて立つ渡辺と向き合った。呼吸は大きく乱れていた。
 秋彦には亜沙美が何をしようとしているのか分からなかった。
 亜沙美は自分に近付いてくる渡辺に向かって、自らも一歩一歩近付き始めた。
「いいぞぉ・・・そうだ、こっちへ来い」渡辺は自分に近付いてくる亜沙美に向けて両手を広げた。亜沙美は吸い込まれる様に渡辺の腕の中に入り、渡辺に抱き締められた。そして耳元で一言。
「死ね」
 亜沙美は隠し持っていた銃を渡辺の胸に押し当て撃った。だが銃弾が体を貫き血が飛び散ろうとも、渡辺はすぐには死なず、亜沙美にしがみついてきた。
「あさみぃ・・・・・・これで一緒だ・・・」
 パーン
 亜沙美は無言のまま、更に打ち込んだ。
 パーン
「待って・・・一人はイヤだぁ・・・・・・」
 渡辺の声が漏れる。己の死を悟った悪魔は情けなくもうるうると目に涙を溜めている。渡辺の体は許してくれと言わんばかりに力無く、徐々に地面へずり落ちてく。だが亜沙美は渡辺の背中に回した腕に更に力を込め渡辺を離そうとしない。誰が逃がすかばかやろう・・・。そして同じ姿勢のまま再び悪魔の体に残りの弾丸を全て撃ち込んだ。
「死にたくないぃぃぃ・・・・・・」
 渡辺は亜沙美に救いを乞う様に、すがる姿勢で崩れ落ちた。穴の空いた肺は抜けていく空気を吸い込むのに必死だった。
 亜沙美は渡辺にしがみつかれたまま座り込んだ。無感動のまま手から銃を落とした。その時、最後の銃声が鳴り響いた。渡辺が握り締めていた銃から最後の一発が発射された。銃弾は向き合った二人の体を突き抜けた。そして今度こそ、渡辺の息の根は完全に止まった。

ACT7→ https://note.com/lognote_pt/n/n08dc2c71efa6
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