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沈黙は「賛成」を意味すること:東京五輪

沈黙はときに「賛成」を意味することになる。

「反対って言わなかったんだから、「賛成」ってことなんだろ」って。


少し前までは東京五輪は「中止・延期」or「開催」で揺れていた。しかし、今や「無観客」or「人数制限」を通り越して、「何万人収容するか、酒類の提供はどうするか」の話になっている。

現政権と東京五輪委員会の人たちは国民の声は聞かない。どんなに大きな声で開催中止を求めても、「うるさい、庶民どもは黙ってろ」「スポンサー様のことも考えろ」って言われているようだ。開催する前提で話はズンズン進んでしまっている。

本当にこれでいいのか?


スポーツ選手にとっては4年に1度の大舞台のことは誰もが知っている。しかし、本当に今の状況で開催して「夢」や「希望」や「感動」を「与えられる」か?

スポーツ選手に何かをお願いするのは筋違いであることは重々承知だし、スポーツ選手は競技をすることが仕事だから、目の前に試合があれば最善を尽くすべく練習していることもわかっている。

けど、何も意見を表明しなければ「五輪開催に賛成する」ということになってしまう。賛成ならそれでいいし、どうしても今年やりたいんだという意見でももちろんいい。でもそれが大きなリスクを負うことや世界各国からスター選手が来ないがために盛り上がりも不十分なものになること、これまでの五輪のようには国民が応援してくれないこと、それらを念頭においておく必要があるだろう。


私は「オリンピック」というもの自体は好きだった。4年に1度スターが大集合するスポーツ大会だ。ロンドンのときもリオのときも各国の選手の名前や特徴を一生懸命覚えたり、夜更かししてでも早起きしてでも決勝戦は観たい。どこかの国を応援するのではなくスーパースターの活躍が観たい。東京五輪が決定したとき私は高校生だった。東京五輪に何かしら関わるためには上京せねば!とさえ思った。


しかし蓋を開けてみればこれだ。がっかりだ。

東京五輪はこれらの不祥事の後にやるということになる。

橋本聖子は感染症対策分科会の尾身茂会長ら専門家有志の提言を黙殺した。科学者の意見は「都合」が悪いから聞こえないらしい。

国民の意見も聞かないが、科学者の意見さえも聞かない。これのどこに平等があるのか。平和があるのか。どこにもない。


唐突だがローマのコロッセウムを思い出す。

コロッセウムはローマ帝国の時代に完成した円形闘技場だ。剣闘士奴隷の試合などの見世物が演じられた。観客席はアリーナに最も近い大理石の座席が元老院議員、その上が騎士階級席、その上が商人や職人などの上級市民席、最上階の立見席が一般席だった。

コロッセウムでは、民衆が皇帝に対して要求した「パンと見せ物」のうち、見世物にあたる娯楽がまず提供された。それには、剣闘士奴隷の競技、動物と動物または動物と剣闘士奴隷、あるいは模擬海戦などが繰り広げられた。キリスト教徒に対する迫害が強くなると、信者をライオンの犠牲にするなどの処刑も、「見世物」として興行された。引用

スポンサーや五輪関係者のための「東京五輪」であるならば、コロッセウムの「パンと見せ物」となんら変わらないような気もしてくる。貴族たちがスポーツ選手たちを競わせて、楽しんでいる。

それに「夢」も「希望」も「感動」もあるか?ないだろ。



大変個人的なことだが、現在大学院に留学しているのだが、日本から毎日リモートで授業を受けている。クラスメイトには会ったことはない。しかし、2年間のコースは半分を終えた。もう会わずに、大学も行かずに修了してしまうかもしれない。

もうひとつ大変個人的なことだが、隣の国に住むパートナーとは1年以上も会っていない。これが兵役だったら、心配ではあるが終わりの日が決まっているから「気長に待つかぁ〜」とはなる。しかし、この状況だ。いつ再会できるかはわからない。寂しいとか会いたいとかそういう感情よりも、「相方の時間を無駄にしてしまっているんではないか」とかそういう考えが湧いてくる。私と出会ってなければ、もっと自由に恋愛できたかもしれない。

これで五輪開催して、日本への渡航/日本からの渡航が再び厳しく制限されたら、逆戻りだ。東京五輪開催には断固反対だ。利益などない。4年に1度の運動会より毎日の生活が大事だ。

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