根を張る貴方

 恋愛は二人の世界の構築だ、と聞いたことがある。けれど私は、恋愛は二人で一つの植物を育てていくようなものだと思っている。賑わう駅前で私の視界に入る多数のカップルは、多様な形や色をした植物を抱えていた。その植物を二人で大事に育てているカップルもいれば、その植物の存在にすら気が付かず手入れを厳かにしているカップルもいる。それは恋愛が三者三葉であることを表現していた。
「お待たせ」
 周りに気を取られ、私は声をかけられるまで友人の存在に気が付かなかった。
「待ってないよ」
 私は久しぶりに会った友人に笑顔を向ける。
「加奈子、なんか痩せた?」
「少しね」
 私たちはそんな他愛もない話をしながら、夕食を共にする店に向かう。友人の茉奈と私は高校生の時から仲が良く、かれこれ十年近くの付き合いになる。
 店に到着し適当に食べ物を見繕うと始まる会話。それは途切れることがなかった。仕事の話や旧友の話、次第に茉奈の話したかった話題へと移行していく。
「彼氏がさ、浮気しているかもしれなくて……」
「え、本当?」
 茉奈の彼氏には一度だけ会ったことがあり、誠実そうな印象を受けたので私は驚いた。
「最近色々ご無沙汰で、私にも素っ気ないんだよね」
 神妙な表情でため息をつきながら茉奈は頬杖をつく。
「でもそれだけじゃ浮気しているとは思えないけど」
 檸檬サワーの氷が、カランと音を立てる。私から目を背けた茉奈は、ふくよかな頬を微かに動かし始めた。不安に陥り精神が乱れると口をすぼめる茉奈の癖は、昔から変わっていない。
「知り合いが、彼氏と知らない女が歩いているのを見たって」
 よく聞く浮気の発覚の仕方だな、なんて私は思いながらもそれを決して口には出さなかった。こんな時に友達としてかけるべき言葉はなんだろう、と思慮しながら私は居酒屋の壁を見上げる。こげ茶色の木目が引き立つ壁には、ありきたりな言葉をさも名言であるかのように達筆で書いた色紙がかけられていた。
「ちゃんと話し合いはした?」
「まだ」
 疑心暗鬼に満ちた茉奈の心情を察し、私は茉奈の頭を撫でる。
「付き合って長いし、いい機会だし色々話し合って見たら? もう結婚を考えてもいい歳なんだから」
 結婚、それは茉奈が彼氏と共に抱いた夢であったはずだった。いつか訪れるだろうと思っていた未来が危ぶまれ、目に涙を浮かべながら茉奈は頷く。
「うん、ありがとう」
 泣き出す茉奈の隣に移動して背中を撫でる私は、何となく自分の発言が偉そうに思えた。泣いている茉奈を見て、もしかして自分の発言のせいで茉奈は泣いているのではないか、と私は罪悪感を抱く。
「でも私、彼を失ったら生きていけない……」
「茉奈……」
 特に励ます言葉も出ず、ラストオーダーの時間になる。ありがとう、なんて言葉を茉奈から受けたが、私は自分のありきたりな対応しかできなかったことに申し訳なさを強く感じていた。

 また会う約束をして茉奈と別れた後、自宅の最寄り駅である調布駅まで電車で揺られ到着したが、けれどそのまま帰る気にもなれなかった。何も考えずに夜風に吹かれながら長いこと歩いていると、深大寺に辿り着く。夜の深大寺は少しの薄気味悪さを感じさせ、けれど私は何かに引き寄せられるかのように深大寺の境内に入る。
 かれこれ2年ほど彼氏がいない私は、懐かしい深大寺を見て過去の恋愛を思い出していた。元彼と出会った四年前、私たちはデートで深大寺に来たことがあった。元彼を一目見た時から恋の予感を味わっていた私は、そのデートに心を躍らせ楽しんだ記憶がある。
 甘酸っぱい沈黙や、必死に何かを話そうと意気込む元彼を可愛いと思っていたあの頃の自分と今の自分があまりにもかけ離れすぎていて、まるで他人の恋愛を覗き込んでいるような感覚に陥った。
 境内を目的なく歩いていると「おみくじ所」と書かれた看板が視界に入り、引いたおみくじが大吉だった、と私に報告した元彼の屈託のない笑顔をふと思い出し、私の瞳からは自然と涙が零れ落ちた。そして同時に思い出す、彼を失ったら生きていけないという茉奈の言葉。それはいつか自分も抱いていた幻想であり、願望でもあった。元彼無しでは生きていけないと信じていた三年前は、まるで元彼が私の足であるかのような錯覚を持っていて、元彼の世界から自分が居なくなることがたまらなく恐ろしかった。
 不安や恐怖は好きという感情と一心同体で、宇宙より膨大で私の視界を霞ませる。さらに恋は私に目隠しをし、私の耳元で元彼との思い出を音として垂れ流し、私に幸せなのだと思い込ませた。マイナスの感情ですら、元彼が生きてくれているから抱けるものなのだと私は思い、大事にした。
 二人の波長が合う日、確かに私たちは幸せでやはり私は元彼に愛されているんだと思えた。日常に散りばめられた不幸の合間に訪れる少数の幸福は、多数の不幸に勝るほど美しくかけがえのないものであった。麻痺した感覚は麻痺したことすら教えてくれず、歯車を狂わせ私の身も心もボロボロにする。私は自分を守る鎧をわざと捨てて、元彼に傷つけられる道を選択した。結果元彼は体には傷を負わず、心に傷を負ってしまった。

 夜風が私を包み込み、懐かしい桜の匂いを私に届ける。幸福が多数だった四年前、私は未来にもっと多大な幸福が待っていると思っていた。不幸が多数だった三年前、私は未来に多大な幸福が待っていると思っていた。いつでも私は未来が幸福だと思い込んでいたのに、今の私はちっとも幸福ではない。
 ごめんなさい、それが口癖だったあの時。鈍痛が体中に走り、意識が朦朧としていた私はそれでも元彼を愛していた。怒らせたのは私、悪いのは私、殴られるようなことをしてしまったのは私。そう思わなければ元彼と一緒に居る権利が剥奪されてしまう、そう必死に自分に言い聞かせていた。私にだけ見せる元彼の笑顔を守りたい、いつまでも元彼の彼女でいたい、それが私にとってこれ以上のない幸福であったはずだ、そう自分に言い聞かせていたのに、心も体も痛くて堪らなかった。
 今も昔も私は元彼を大好きで愛おしくてたまらない、その愛情は芽生えた時から変わることはない。私を殴った後に私に見せる元彼の背中が孤独な子供の様で、私は母性を抱きいつも優しく抱き締めていた。そんな私を抱きしめ返して私の頬にキスをする元彼は、決まって何度もごめんねと呟く。悔悟の念を抱き自暴自棄になる元彼に、私はちゃんと微笑みを向けることが出来ていたのだろうか。床に落とされた寂しげな影ばかりを見て、私は元彼の存在を直視することが出来ていなかったかもしれない。
 私が元彼に暴力を振るわれていることがばれて、両親が私を連れ去った二年前、両親は元彼が私を探し回ると思い込んでいた。けれど元彼はあれから一度も私の前に姿を見せない。ホッとする両親に隠れて、私は不透明な希死念慮を抱いた。鏡を見る度、痣のない自分の身体が気に入らなくて自傷行為をしたこともあった。今はもう、そんな気力すら湧かない。
時たま元彼が苛立ち私を殴ろうと近づいて来る時のような感覚が、私の中に現れる。どこからか私の名前が呼ばれているような気がしていた。

 私たちが育てた植物は私の身体に寄生して、私の頭のてっぺんに大木を成らせていた。今でも私の脳に根を張って生えた立派な大木を引きずり、歩いている元彼。その感覚はどこか心地良くて、大事にされているように私を錯覚させる。それは俗に言う美化というものだと最近気が付いたけれど、それでも私は元彼と育てた植物を未だに捨てられずに成長させていた。
 いつか私の元に訪れる誰かがこの植物を根こそぎ引っこ抜いて新しい脳みそをくれるまで、このままでいたいと思っている。
 静寂を与える厳格な趣を持つ深大寺。甘い思い出を鮮明に蘇らせてくれたけれど、恋愛成就を掲げるのはいかがなものかと私は小生意気に苦笑した。

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