見出し画像

熊野、その周辺性

梅原猛・中上健次(1994)『君は弥生人か縄文人か』
で梅原猛が喋っていることをメモします。

熊野は黄泉の国

記紀神話(記紀とは古事記と日本書紀のこと)を見ると、熊野というのは黄泉の国のイメージである。
そこにはこの世と違った秩序があり、そして死と通ずる不思議な世界だという観念が持たれていたのではないか。
熊野は山人だとか海人の世界。つまり縄文の世界。

一方、現世というのは農耕をしている。
柳田国男に言わせるとそれは常民の社会。
弥生時代以来、稲作農業が日本人の生活の主体になった。7世紀になると大陸の輸入文化の影響を受けて律令国家が築かれる。
律令政治体制は稲作農民から収穫を税としてとることで国家がまかなわれている。
律令時代の権力は農民世界の権力である。

そうすると、山人や海人はどうしてもそういう世界から外れてしまう。
彼らは最初から不合理な存在であるからだ。

しかし、平安時代に中国との貿易が断たれると、再び昔のものが見直される。
その中で自分たちの失った山人的、海人的なものが平安時代の支配者にとって魅力的に映ったのではないか。
これが憧れとしての「熊野信仰」である。
ちょうど『古今集』が作られるころ、つまり国風文化が興った時、熊野詣が始まる。

人間は死んだら山へ行く

後白河や後鳥羽上皇は熱心に熊野詣をしていた。
なぜか。彼らはその理由をはっきり意識していないがしかし、そこは縄文的な世界、縄文的な信仰世界。人間は死んだら山へ行く。だから山は全部死者の場所なのだ。
だんだん農耕化されて死者と繋がる場所がなくなると、まだ濃厚にそれが残る熊野が見出される。
「聖なる空間」みたいなものを求めて仏教と結びつく。無意識のうちに古い宗教の聖地を求めていた。
それが彼らにとって魅力に映った。

つづく


※後白河上皇は生涯で34回も熊野詣をするほど熱心でしたが、あまりにも紀伊国が遠くて頻繁に詣でることができないため、熊野権現を勧請して京都に3つの神社を建立しています。
※以下京都三熊野に行ってきたときの写真です。

熊野若王子神社(熊野那智大社に対応)
熊野若王子神社から徒歩15分
那智の滝に見立てた「千手の滝」
熊野神社(熊野速玉大社に対応)
新熊野神社(熊野本宮大社に対応)


余談ですが、神主さんの娘さんと中学卒業ぶりに再会しました〜

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?