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ジムに通い始めた

はじめてプロテインを飲んだ感想は「これは焼く前のパンですな」だったが、いくらなんでも不味すぎると思って説明書きの通りシェイカーを買い、今日は振ってみたらちゃんと飲み物だった。牛乳に粉入れてさっくり混ぜる製菓スタイルでは喉越し最悪のだんごになって当然だったらしい。

ジムから帰ってきて、今日こそ飲み物的プロテインを飲んで、いまはベットでごろんとしている。栄養が体内にある。おそらくまだ胃。目的のために体に取り込んだものは、完全に手段であり、鶏肉は滴る汁がうまいぜとか塩茹でしたブロッコリーは香りがいいぜといったようなそれ自体が目的ということは何も感じられず、ただ飲む、胃に入る、達成、はい完了である。(もしこのプロテインにタンパク質が入っていなかったらブチギレでしょうね。気味の悪い日本語だけど。でも鶏肉なら、まぁいいかとなるというわけ)

しかし、どうせ私のことだからそのうち「プロテインはおいしい」とか言い出すんだろうなと予想する。結論が先行しているのだ。よいとされるものを、よいからやっていたのに、いつの間にか好きだからやっていることにすり替えてばかりだ。野菜はおいしいから食べてるの!!(いや、私は、野菜は本心からおいしいと思っていると信じているんだけど…。) 内面化しているかどうかってどうやったら判別できるもんなのかしら。読書も、料理も、フェラチオも、全部好きでやっているつもりなんだけど、世間でよいとされていることが知識として予めインプットされちゃってる事実は否めないから難しい。さらに難しいことには、人が褒めてくるのがよくない。褒められると、好き・好きじゃないの尺度がいっきに崩れて、よい・よくないとか、凄い・凄くないとかになるんだ。これだ。みんな、褒めんな私を。(もちろん貶されるのは悲しいからやめてほしいが)

で、最近はとにかく口数が少なくなった。私の稚拙なおしゃべりは、すぐにお手軽な落とし所を求めてどっかに着地させるから、これがよくないと思って喋るのを控えているのだ。
「筋肉つけたら痩せすぎって指摘されなくなるかな」も「M気質だから筋トレはきらいじゃない」も「筋トレしてたら考え事減るから病みがちなのが治りそう」も、うるさい!やめろ!こうやってストーリー仕立てにして相対する人ごとにちょっとずつ違うこと言うな!脚色にひとり歩きさせるな!本当を守れ!私!私に言っている!
――という経緯で、いま手元に残っているのは「筋トレをしている」「筋肉が以前よりついた」「筋トレ中は考え事をしないな」という事実のみ。誰にも何も喋らない。割にストイックに、毎日ジムに通う私は、私にも何も喋らない。

そうこうしてたら、自分でもなんで毎日やってるのかハッキリしないな。目的不明確なまま留保された行動ばっかりが積み重なっていく。筋トレは、おそらく好きだ。



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