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信頼による自責の利己的な心からの解放について

今日は人として目指したい方向性的な、ばくっとした話をしたいと思います。人としてのステージって他責→自責1(自分軸のみ)→自責2(他人軸も交わらせる事ができる)って分類されるかなってお話で、自責2を目指したいなってお話です。

自責=利己的?

突然ですが、あなたは、周囲の環境のせいにして、何かを選ばされていると思ったり、今の自分が上手くいかないのは、周りの影響は少なからずあると思っていたりしませんか?

この考え方に対して、まずお伝えしたいのが、自分の人生は自分のためにあるのであって、他者が勝手にコントロールする人生なんて自分の人生ではないですよね?と言いたいのです。

だから僕は自分の人生は自分で選択していきたいと思っているし、いろいろ本を読まれている方は「要するに、他責ではなく、自責の人生を歩めってことでしょ?」と思われるかもしれません。そうです、そういうことです。

一方でですね、自責の人生を選ぶと、全ての結果は自分が選んだ結果なんだから、選択するかしないかの責任は自分にあると思えて、逆に他人に対して影響を与えることですら、自分自身のために選んだんだ、という思いが結構強くなったりするのはないかなと思っております。(現に僕がそう思っていました。)

どういうことかというと、例で示したいと思います。
例えば、全く知らない誰かからの悩み相談を受けるかどうか。これ、一見すると他人のための行動のように見えますが、自責の人はきっと、その悩み相談を受けるかどうかが、自分にとってどういう影響を与えるかを考えるのではないかと思います。
ちなみに、僕の場合は以下のように相手によります。
かわいい女の子:受ける
お金持ちの人:受ける
愚痴っぽい人:受けない
大学生:受ける

それぞれのケースを分解すると、相談を受ける理由が異なってて。
かわいい女の子:かわいい女の子を見ていると幸せな気分になれるから
お金持ちの人:もしかしたら、相談にのることで僕が何かを思いついたり、あるいは金銭的な見返りが期待できるかもしれないから
大学生:将来どこかで世話になる機会があるかもしれないから
逆に、なぜ愚痴っぽい人の相談にはならないかって、話を聞いていて疲れるから。

つまりは、全く知らない誰かの相談を受ける、受けない、という誰かのためになる行為に対する判断指標ですら、僕の中で何かしらメリットがあるか、ないかで判断していて、決して相手のために、と思って相談を受けているわけではないんですよね。(ちなみに、他責の人はこのときに自分の感情ではなく、相手の立場を言い訳にして相談を受けるか受けないか決めるんだと思います。例えば、相手がかわいそうだから、とか、断りにくいから、とか。)

なんだか、こう考えると、自責って、なんだかドライで、打算的だよなーって思いませんか?そう、まさに僕自身が最近ちょっと悩んでいたのがそこでした。

前述の通り、自分自身で選択をするということは、ある意味何か相手のためにやることも、自分にとってメリット/デメリットで考えてしまい、結局は自分の軸で判断しているんですよね。だから、自分の今いる環境を周りのせいにはしないかもしれないけど、ある意味利己的だよなぁと

この上司のためなら頑張れる、という気持ち

そんなことを悩んでいると、僕の中でふと疑問が湧いてきました。「そうは言っても、これまであの上司のためなら寝る間も惜しんでがんばれるってことがあったけど、これはいったいどういったことなのだろう?」という疑問です。むしろ、純粋に自分自身のためにがんばるよりも、誰かのためにがんばる方が、がんばれるのではないか、ということまで思い浮かんだし、事実そうだったんですよね。そして、これこそ、利己の心に対して利他の心で動けている状態で、自責という自分の軸を持ちながら、純粋に誰かのためになりたい、という相手を思う気持ちを持つことができている状態で、どんなときにこういった感情を持つことができるのだろう?と考える事になりました。

利他の心を持つことができるのは、相手の方と軸を合わせることができると感じた場合

どういった環境だったら、利他の心をもつことができるのだろう?と考えてみると、利他の心をもつことができる対象となる人が自分の近くにいる場合なのかなーと。はい、わかりにくいですね。つまり、誰に対してでも利他の心をもてるわけではなく、「この人のためだったら」と思える場合にのみ、利他の心が発動するわけですね。

では、利他の心を発動させる事ができる対象の人ってどんな人かっていうと、その人と「共同体感覚」を持つことができる人、つまり、「自分がその人の軸と自分軸を同一の軸として考える事ができる人」なのかなと考えています。
さらに、その人の軸と自分軸を結びつけるのが、「尊敬」という横の繋がりなのかなと。まぁ、アドラー心理学的発想なのですが。

だから、相手を尊敬し、自分の軸と相手の軸を結びつけることで、「その人のためならがんばれる」という利他の心を呼び起こすことにつながる、というわけです。

利他の心の基点は相手への信頼

ちょっとここまでざぁっと読み進めてきた人のために、少し復習です。

まずは自責の人生を歩んだ方がいいですよってお話。
そして、自責の人生を歩んできたとしても、利己的ではなく、利他の心を持つことでよりパワフルに活動できるようになるから、相手を尊敬して、自分と相手の軸を結びつけるとよいですよってお話ですね。

はい、ではここからは、どうやって相手のことを尊敬するのかってお話です。僕の中では、この利他の心のスタートになる尊敬って、信頼から生まれるものだと思っています。
この信頼がまた厄介で、多分個人が持っている相手にかけることができる信頼の総量って決まってるんですよね。イメージは、信頼の総量が多い人は、いろんな人に無条件でいろんなことができる人。そうでない人は、なかなか人のためには動けない人。
相手に信頼を送って(例えば、相手の代わりに何かをやるとか。)、その信頼を受け取ってもらえなかったら(お礼の言葉がない、とか)、自分の相手に対する信頼は宙に消えてなくなるんですよね。でも、お礼の言葉をかえしてもらったり、相手が自分の代わりに違う何かをしてくれたら、そこで相手に対する信頼が返ってきて、さらに相手に信頼を送ることができる。そしてそれを繰り返して行く間に、共同体感覚(相手と自分の軸が交わった状態)を持ち、利他の心を持つことができるようになるのかなと。

もうちょっと付け加えると、この個人が持つことができる信頼の総量っていうのが、個人の人としての器の大きさにつながるのかなと。
器の大きい人は、いろんな人を信頼できるから、相手を受け入れることができて、人のために何をできるようになる。
器の小さい人は、そもそも相手に信頼をかけることができないから、いつまでたっても他人軸で考える事ができず、見返りを求めてしまう。

そう考えると、結局この信頼って言葉も、ある意味見返りを求めている産物であって、自分軸を経由しているものなのですよね。信頼は、自分軸世界における仮想通貨みたいなもので、その流通量が盛んになると、お互いの軸を共同体感覚という形で共有し、双方間のパスをつなぐきっかけみたいなイメージです。ニューロンがお互いの軸だとすると、信頼がシナプスとなり、その全体が共同体感覚で有り、脳であると。

だから、冒頭の悩み相談を受けますか?という問いも、実は僕自身にはメリットがあるから受けていた場合でも、相手から相談に乗ってくれた対価として信頼を受け取っている場合があって、それをきっかけにしてパスが形成され、共同体感覚を築くスタート地点になる可能性はあるってことですね。そう考えると、打算も悪くないわけです。

いろいろ書きましたが、自分軸に他人軸を巻き込んでいくために必要な信頼関係の構築って、自分がやる気を出すためのエナジー源になっていて、非常に大切なんですね。でも、その構築は本当に難しい。

これは感覚的な印象ですが、多分、お金持ちの周りにはお金持ちが集まるのと同じで、個人の持つことができる信頼の総量が似た人たちが世の中には集まっていると思っていて、信頼の総量が多い人は、総量の多い人たちが近くにいるから、お互い信頼しやすく、少ない人たちは、みんなが信頼をロスしているから深い信頼関係の構築ができないのかなーと思ってます。

特に、今の日本はこの信頼の総量が少ないから、誰かのためにがんばるという雰囲気が見つけにくいし、結果的に幸福度が低くなるのかなーなんて。

だから、まずは個人としてまずできることは、いいな、と思った人はちゃんと信頼すること。そして相手が信頼したいと思わせることができる人であること。もちろん、具体的な手法がどうこう、というわけではなく、ただ真摯に、内省を繰り返し、自分を正していくしかないのかな、と。
でも、その先には、多くの人と信頼しあい、お互いが、お互いのために全力を尽くすことができる、素晴らしい関係が築けているのではないかなと思っています。一人一人が意識をして、こんな素晴らしい世界を築いていきたいですね。

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