「鬼について」
「鬼」といえば古くはおとぎ話の『桃太郎』『一寸法師』に登場するものや『泣いた赤鬼』などがよく知られていますが、現代では『鬼滅の刃』がダントツでしょう。
ではその「鬼」とはなにかと問われれば、知っているようで知らない方が大多数ではないでしょうか。かく言う私もそのひとりでした。
なぜ時代を越えてもてはやされるのか?それを探り、「鬼」をテーマの物語の創作を思い立ちました。そのとき参考にしたのが上記の方々の著書です。そこには私の知らない世界がありました。
そもそも日本人にとっての「鬼」とは「人」の否定形であり、反社会的・反道徳的「人間」として造形されたものです。(『鬼と日本人』小松和彦著)
また古い時代の中国では「鬼ハ帰ナリ」と表現され、死者の魂の帰って来た形とも考えられていました。(『鬼の研究』馬場あき子著)
「鬼」という語は古代の『日本書紀』『風土記』などにも登場する長い歴史をもち、それが現代にも脈々と生き続けています。今でも節分には鬼のお面を被った者に豆を投げる風習や、秋田のなまはげなんかも見られますね。
中世以前は、現在知られている鬼の典型的な姿形はなく、疫病など目に見えない禍々しいものを現すため、牛や馬の頭だったり、球体に手足が付いただけの造形だったりします。それではいつ頃から角や牙、赤や青の厳つい躰になったのか。どうも中世の河原者と呼ばれ穢れ仕事を請け負っていた者たちの影響らしいといわれています。(行者包みと呼ばれる頭にふたつ、きりりと巻き上げた被り物が角にみたてられたりと)
探れば探るほどそこには時代の背後に蠢くある人々の存在が見え隠れします。
そしてひとつの完成形として、能の<般若>面が”鬼女”として室町時代に確立しました。
それは三従の美徳、(女性は幼児期は父親に、成人し嫁入りすれば夫に、老年期に入れは息子に従うべし)が中世の女性たちに課せられ、複雑な心情において屈折せざるおえなかった女性心理の苦悶を表現するものだからといわれています。
本来仏教の「般若心経」では、<般若>は<知恵>という意味であり、<知恵>の究極として「一切是空」の真理を説いたものでした。それがなぜ鬼女面になったのか。
実際のこの能の演目を鑑賞したことはありませんが、嫉妬、憎悪、憤怒の極に達した女性が、本来の己を取り戻す間際の内面を現す姿なのだといいます。般若面の下には悟りを得た表情として美しい小面をつけていたりするのだと。
これはそこに切り込み「鬼」の悲哀を表現することに挑戦した作品群です。
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