『奇談・怪談・夢語り その六』
~月が見ている~
陽が沈んでも昼間の暑さは去らず寝苦しい夜だった。
クーラーの風は苦手だが眠るために仕方なくつけていた。
それでも寝付けず何度も目を開けるが、となりの寝息は安らかだった。
見るともなしに目を向けるとカーテンの隙間から細い明かりが差し込んでいた。そっと起き上がり窓辺に寄る。月が出ていた。
と、そのとき、僕はふと遠い日の情景を思い出した。
記憶の奥底にしまい込んで蓋をしたはずの情景が浮かび上がってきた。
目の前に古い大きな茅葺屋根の家があった。
静かな山間の里だった。父と幼い僕はふたりで訪れていた。
なぜふたりきりだったのかは覚えていない。
そこには庭があった。とても大きな池のある庭だった。
池には澄んだ水底にいくつも揺らめく湧水が見えた。
緑青色の水草の間を悠々と泳ぐ錦鯉の姿もある。
餌をねだっているのだろう。池のふちに立つ僕に向けて幾つも口が押し合いへし合いしている。
僕は目をそらした。あの口に吸い込まれそうな気がしたのだ。
池の片側には小さな紅い鳥居を据えた築山があった。
築山には同じ色の小さな橋も架かっている。
池の水に鳥居と橋の紅色が鮮やかに映えていた。
僕は何気なく橋の欄干に手をかけ足を踏み入れようとした。
すると、
「そこへ行ってはいけません。帰って、これなくなりますよ」
静かだが有無をいわせない凛とした声だった。
振り向くと、背筋をしゃんと伸ばして立つ着物姿のお婆さんがいた。
やはり暑い時期だったのだろう、涼し気な着物だった。
帯に差した鈴が「ちりん」と鳴った。
お婆さんの深い皺に埋まる目が、笑っているのか怒っているのかわからなかった。
「帰ってこれなくなる」とはどういうことなのか。
あの夜も月が出ていた。月明かりに池が青く光っていた。
夜中、僕はそっと部屋を抜け出した。
築山の鳥居が気になって仕方なかったのだ。
裸足のまま庭に降り立ち、足音に気を付けながら池の前まで進んだ。
しんとしていたが、庭の周りと建物の方に耳をすませた。
物音ひとつ聞こえてこない。よし大丈夫、みんな寝静まっている。
これから橋を渡りあの鳥居をくぐるのだ。
たどり着けるのは小さいけれど勇気のある者。それは僕だ。
クラスの誰よりも小さかった僕はそんな思いに囚われた。
「帰ってこれなくなる」なんて、大人のお決まりの脅し文句だと思った。
ちょっとした冒険心だったのだ。
風が吹いてきた。
木々を揺らす強い風が真正面から吹いてきた。
誰かが僕を引き止めようとしているかのようだったがかえって僕を奮い立たせた。意を決して足を踏み入れた。
難なく橋を渡り鳥居も苦も無くくぐり、築山に登った。
宝物でも隠されているのではないかと心躍らせていたのに、そこには何もなかった。拍子抜けした。
そんな僕を月が見ていた。
しかし翌日だった。
おかしなことが次々湧いてきた。僕は数々の異変に見舞われた。
まず帰る道々、何に腹を立てているのか、父が始終苛つき目を怒らせている。「何をしてるんだ、ぐずぐずするんじゃない早くしろ」
タクシーや電車に乗り降りする度に怒鳴り散らされた。
そんな父をこれまで見たことがなかった。穏やかな父だったのだ。
姿かたちは確かに父なのに知らない人のように見えた。
そして、降り立った駅が、住んでいた街が様変わりしていた。
あるはずの商店街がない。なかったビルがいくつも建っている。
家に帰りつくと待っているはずの母が、ずっと前に亡くなっていた。
驚愕することばかりで僕は幾日も周りから奇妙な目で見られた。
「帰ってこれなくなりますよ」お婆さんの声が耳の奥にこだまする。
あの後、もう一度あそこへ連れて行ってもらったが、そこは近代的なリゾートホテルになっていて、あの家も池や築山も見当たらなかった。
父はそんな田舎の建物は覚えがないと言う。
あれからずい分月日が流れ、その父もとっくに亡くなっている。
「帰ってこれなくなりますよ」また聞こえてきた。
いや僕の帰る場所はここ、ここだ。
この彼女のいるところが僕の帰る場所だ。
そう心に決めた僕を月が見ていた。
もうあの声は聞こえてこないだろう。
了
ご高覧たまわりありがとうございます。
画像添付でまた世界観が広がりました。画像製作者さまに感謝感謝でございます。
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