ジャニーズ抜きの高校生活から、上京するまで

私の高校生活と言えば、恋愛に明け暮れていた。

それはもう、ジャニーズのジャの字が入り込む隙さえないほどに。

「好きでなくなった」とか「興味がなくなった」というのとは少し違っていた。

TVに好きなジャニーズが出れば録画して見ていたし、CDが出れば買っていたし、嵐のファンクラブの会員でもあった。立派なジャニヲタである。

けれども、まだ携帯電話を持たない中学時代、ルーズリーフにしたためる手紙の内容はほとんど嵐のことだった私は、そのツールを携帯電話に変えて、実在する男の話をするようになっていた。

化粧を覚えたのも高校1年の春だった。

私が住んでいた県は、TBSが映らない、そしてコンビニに行くにも親に車を出してもらわなければならない地域であることは先に書いた通りである。

ただ、それでも「携帯の電波すら入らない家」ではなかったし、1時間に1本とは言え電車は通っていた。隣の家までは、数十秒でたどり着ける。

つまりは「田舎の中でも、めちゃくちゃ都会ではないがめちゃくちゃド田舎ってわけでもない」くらいのところが私の生家である。

つまり何が言いたいかって?高校ではその「めちゃくちゃ都会」で生まれ育った女たちと机を並べることになるのである。

私は、入学式ですでに化粧をしている同級生の姿を見て衝撃を受けたし、そして焦った。

入学式を終えたその足で、一番近いダイソーへと車を出してもらった。

100円で買えるマスカラ、ビューラー、下地、パウダー、アイライナーにアイシャドウにアイブロウ。

片っ端からメイク用品を買い集めたあの日。

そこから私は雑誌「SEVENTEEN」や「Popteen」を教科書に、独学でメイクを学んだ。ちなみに勉学に励んだという記憶は皆無である。

榮倉奈々や木村カエラが、愛読書SEVENTEENに突如現れた期待の新人だったあの頃。浜崎あゆみが恋焦がれた男の元妻が、トップモデルだったあの頃。それが、わたしの青春時代ど真ん中である。

私が自身の高校生活に定めた最大の目標は「恋をする」ことだった。

それは、絵に描いたようなスポ根少女となってしまった中学時代の反動でもあったのかもしれない。

部活ではレギュラーにもなれたし、大会でもそこそこのところまで進んだ。それはそれでもちろんいい思い出だ。

しかし、そんな強豪部に所属していた私に、オシャレの自由はなかった。彼氏はできたっちゃできたが、それほど青春っぽいこともせず終わった。

もとい、「絵に描いたような青春をやってやる」ということ。それがわたしの、高校生活への野望だった。当時一番好きだった漫画と言えば矢沢あいの「ご近所物語」である。

得てして私は、とある男子部のマネージャーとなり、その部員に恋をし、望んだままの青春を手にした。

これは今現在の私にも通ずるとことがある。

私は今も、「彼氏がいる時は別にジャニーズどうでもよくなる」性質だ。

両立できる人種もいることは知っているけれども私はどうやらそうではない。

つまり、高校生活3年間、私は恋愛に明け暮れていた。

彼氏が絶えなかったというほどモテたわけでもないが、人生最高の片想いをしたのもあの頃だったし、人生最高に私を好きでいてくれた彼氏というのができたのもあの頃だ。

ニノのことも、亀梨君のことも、もちろん堂本剛のことも。

テレビで見かけりゃ「あ、カッコい♡」とも思っていたし、ドラマをやると知れば見ていた。

ただ、現実世界で彼ら以上に私を思い悩ませる男たちが常にいたので、どうしたって感情はそちらに揺さぶられていた。

ニノや亀梨君は、私が自らの意思でチャンネルを選んで見ていなければ、顔を見ることも声を聴くことも叶わなかったというのに、私の予期せぬところで携帯を鳴らしては心躍る言葉を送ってくるような男がいたのである。

そんなの、気持ちが離れても無理はない。

私の心が再びジャニーズに踊らされ始めるのは、高校を卒業し、上京してからのことである。

そんなにも、ジャニーズとは離れた日々を過ごしていたかのように見せておいて、私が上京した最大の理由というのは「亀梨君に会いたい」だったのだから、我ながらブラボーという思いでいっぱいである。

高校受験前に、東京に行きたい意思を発現した際に母は私に言った。

「高校はせめて地元で出てほしい」と。

その当時の理由は「私が地元で高校に行っている間に、ニノには女ができちゃうかも」だったわけだが、その3年後、ニノは亀梨君に変わっていた。

ニノが亀梨君に変わってしまう程度には、ジャニーズのことも追っていた高校生活なのである。

東京の女子高生は、放課後に少年倶楽部の収録に参加できることも知っていた。

東京の女子高生は、バイトをして横浜アリーナのコンサートに行けることも知っていた。

今はどうだか知らないが、出待ちだ入り待ちだと、追っかけにいそしんでいる同じ年端の女が存在していることを、私は知っていた。

どこで知ったのだろう。

当時はまだネットもそこまで普及はしていないから、アイドル雑誌やなんかだったのかもしれない。

とにかく私は「そういう世界があるのだ」ということを知っていたし、「住んでいるところが違う」だけで、そういう差が生まれていることにもはや我慢の限界を迎えていたのだ。

地元での受験を3校受けて全て受かっていた。

県外を受けるだなんて思っていなかった親を「ただ記念で行ってみたいだけ!もし受かったとしても、地元も受かってたらそっちに行くから」とねじ伏せて無理くり受験した横浜の専門学校に、私は進学を決めたのだった。

その時も「これを逃したら、一生地元でしょ?3年で卒業したら、こっちで就職するからさ」と言い伏せて。

ただ、まさかその入学した学校で同じクラスに、KAT-TUN好きな女が存在するとは当時はまだ知る由もなかった。



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