歴代担当(と呼んでいいかわからない時も含む)の変遷について

前記事でも少し触れたのだけれど、いかんせん私はなかなかの田舎で育った。

通学に2時間とか、携帯の電波はないとか、まではいかないものの、そこそこの田舎ではあった。

電車は1時間に1本しか来ないし、コンビニに行きたければ親に車を出してもらう必要があった。

そもそもコンビニと名のつくものが近場にできたのも、小学生も半ばを過ぎてからだったように思う。

当時、そこらでコンビニと言えばイコールローソンのことでしかなくて、他に聞いたことのある名前のコンビニはいくつかあったものの、それはメディアの中にしか存在していなかった。

私が上京してしばらく経って、確かここ5年以内くらいにようやく私の実家のある地域にセブンイレブンができた。

オープン当初、なんの変哲もないただのド平日に、地域一号店となったセブンイレブンには大行列ができたと母から聞いた。

母もその列を構成する一員としてセブンイレブンオープンという記念すべきイベントに立ち会えたようで、「セブンイレブンって、パンが美味しいねぇ」と電話がかかってきたことをよく覚えている。

私の母が異常なのでは決してない。大げさでもなんでもなく、これは娯楽に飢えた田舎での日常である。

そう、なんせ娯楽がないのだ。映画館やカラオケやゲームセンター、行楽施設なんかは一通りあるっちゃあるが、それ以外のエンタメに生で触れる機会などほとんど皆無に近い。

演劇鑑賞、ライブ観賞、スポーツ観戦などといった類のものに触れられるチャンスの圧倒的欠如。

小学校3年かそこらで、初めて好きなアイドルに出会った私にとって、彼らの話す「ライブ」というものは夢の世界の催し物だった。

「彼らが歌って踊る場所があって、そこにお客さんがいる」という画を想像することはできたけれど、そこに私がいることなんて考えもしなかった。

だからKinkiを好きだった頃、彼らに会いたいとかライブに行ってみたいだとか、そういう願望はゼロだったと思う。

私は彼らが出演している番組を見るし、CDが出たら買って聴く。

それで満足していた、というよりも、その方法しか知らなかったと言った方が正しい。

出演番組があればその時間までにテレビの前で待機するし、CDを発売するとわかれば親に頼んで買ってもらった。番組は録画してビデオテープが擦り切れるほど見た。それが本当に楽しかった。

しかし、私のKinki熱はあっという間に冷めてしまうことになる。

何も特別なきっかけがあったわけではない。

ただ、髪の毛をつかみ合ってケンカしたほど光一を好きだったはずのクラスの友達は、なんだか最近全然Kinkiのことを話さなくなったし、私も前ほどは楽しくないな、と思い始めて自然消滅した。

今ならわかるけれど、あの時、私が実際にKinkiに会いに行くことのできる距離で暮らしていたならもしかしたら今もKinki担だったのかもしれない。

それほどまでに、会えるか会えないかというのは大問題なのである。ヲタクにとってはまさに生命の維持に関わる死活問題。

しばらくして「8時だJ」がスタートし、いわゆる黄金時代の幕開けとなった。

これを今の私をよく知る者に話すと死ぬほど驚かれるのだが、私はあの番組をリアルタイムで見たことが一度もない。

それまではただのバックダンサー的扱いでしかなかったジャニーズJr.の魅力を世に知らしめた偉大な番組である。

タッキー&翼、嵐、関ジャニ∞、KAT-TUN、NEWSなどの面々が出演していたと言えばその豪華さは想像できるだろう。

なぜ私がそれを見ていなかったのかと言われればその答えは至って単純で、Kinki熱が冷めて以降しばらくの間、私は人生で唯一と言っていいほどの「全然ジャニヲタじゃない時期」を過ごしていたからである。

当時はいわゆるビジュアル系も全盛期を迎え、私はそっちの方面に傾倒していたのである。

これも、当時は全くそんなことは考えていなかったつもりだが、(私が思っていた)「イケてる女子」は皆、ジャニーズになど目もくれずにGLAYやラルクに夢中だったので、少なからず影響を受けていたのかもしれない。

なのでその時は、放送翌日に8Jの話題で盛り上がっている友人を横目に「ジャニーズとかダッサ!」と内心思っていた(なんたる寝返り)。

誤解なきように言わせてほしいのだが、いまだにGLAYの曲は大好きで、よく聴いている。

単なるカッコつけ以上に、GLAYには魅力を感じていたというのは事実である(誰に対しての弁明なのかはもはやわからないが)。

そんな私の転機は、中学生で訪れた。

私が住んでいた学区では、2つの小学校の卒業生が同じ中学へ通うこととなっていた。

そこで部活動を通して仲良くなった2人の友人が、今の私の人生に大きく影響を及ぼしたと思っている。

一人は松潤担でJr.にも詳しく、もう一人は親子共々Kinki担で、相葉ちゃんのこともちょっと好きという子だった。

相葉ちゃんも松潤も、当時はまだ嵐ではなかったけれど、全然ジャニーズに関与していなかった私ですら名前と顔が一致する存在ではあったので、相当人気があるんだろうなということはわかった。

3人でいる時も、ジャニーズの話題を話すときは主に私以外の2人のやり取りになっていた。そのことが寂しかったというのも要因のひとつではあったかもしれないが、私は松潤や相葉ちゃんのことをなんとなく気に掛けるようにはなっていた。

そんなある日のことだ。なんとその相葉ちゃんと松潤が同じグループでCDデビューを果たすことになったというニュースが流れた。これはもはや、他人事ではなかった。

嵐のことを私は「気になる存在」だと認識し始めていた。

最初は、友人である2人の話題についていけるようにという意識が強かったのかもしれないけれど、私は確実にそこへの興味も抱いていた。

だってもともと、ジャニーズのことは好きだった実績(?)があるのだ。

堕ちるのなんて、いとも容易いことである。

そうして、嵐が出ている番組は意識して見るようになり、れっきとした「嵐ファン」にはなっていた。いつの間にやら。流されていたと言えるのだろう。

けれど、本当にびっくりするほど唐突に、特に誰というわけでもなくてただ嵐というグループを眺めているのが楽しいだけだった私に衝撃が走った。ある日突然のことだった。

あの衝撃というのは、(その後)長きに渡って送ることになるジャニヲタ生活の中でもほとんど感じたことがないもので、とても印象が強い。誇張でもなんでもなく、昨日のことのようによく覚えている。

あれは嵐のセカンドシングルで、SUNRISE日本というタイトルで、今思えば完全にトンチキソング認定を受けるに違いない、それをMステで披露したときのことだった。

「キスをしたり」という歌詞のところでカメラに抜かれたニノが、投げチューをしたのである。

唇に指をあてて、それをカメラの向こうへ投げるしぐさを、カメラ目線でした。

一瞬で、瞬く間に、私は転がり落ちた。

「ねぇ!!いまさニノが私に投げチューした!!!」と、一緒に見ていた母に大騒ぎで話したことも本当によく覚えている。

母に「別にあんたにじゃないよ、幸せだねあんたって」と一笑に付されたことも。「そんなの解ってるけどさ!!えーーー!!やばい!!」とにやにやし続けていたことも。

ここで私は「堕ちた」という感覚を知った。

リアルな恋愛体験を覚えるより前に、ニノによって覚えさせられてしまった。

今は30を過ぎているので、リアルな恋をしたこともそりゃ何度かはあるけれども、あれほどまでに見事な堕ち方というものを経験したのは後にも先にもあの時だけである。

Kinkiを、剛のことを好きだと思った時にはなかった感覚だった。

あの時は、ドラマだったり歌うところだったりを見ているうちになんとなく「いいなぁ」と思っていったのだった。確かにそれも、堕ち方のひとつではあるだろう。

けれどこんなふうに、一瞬のうちに、たったひとつの動作で、ティファール並みの速さで沸騰したことは自分にとっても衝撃的な出来事だったのだ。

なので私の中では、人生で最初に「担当」であるという意識を持ったのは、ニノが初めてであったと言える。

…ま、今はもはやニノ担ではないのですけれどね。

ただ、私に輝かしいジャニヲタ人生の楽しみを教えてくれたのは紛れもなくニノだ。

そういった意味で、彼は今もたぶんこれからもずっと、特別な存在ではあり続けるのだろうと思う。





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