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ローカルストレンジャー

ローカルストレンジャー。この言葉を使いはじめたのはニューヨークに住んでいたころのことである。アメリカでは、学生ビザでは働いてはいけないことになっている。けれど大学卒業後1年間、OPTという外国人学生が就職に向けて、インターンとして働きながら在留をして良い期間がある。そんな最後の1年、私はインターンシップといえば聞こえはいいが、無給の雑用係として憧れのコレクションブランドで働いていた。時は2010年、2008年の金融危機の影響がまだまだ生々しかった当時、就労ビザを取得する難易度は上がっていた。雇用を決定してからビザを申請する手間や、弁護士費用などのコストもかかり、その上最終的にビザ取得失敗の可能性がある留学生を雇用してもらえる確率はとても低かった。私は大学でファッションデザインを学んだのだけれど、同じ仕事ができるアメリカ人の新卒なんて掃いて捨てるほどいたし、彼らだって職にあぶれて、インターンシップの枠すら飽和状態だった。私は日本仕込みの勤務態度の真面目さを評価してもらっていたし、上司もとても可愛がってくれてはいたけれど、アメリカ人と結婚でもしてビザ問題を解決しない限り、前途は明るくなかった。

そんななか、同じようにインターンとして一緒に働いていたスウェーデン人の友人が「私たち、ローカルストレンジャーよね」と言い出した。『ありきたりの観光ではなく、そこに住むように旅する旅行者』みたいな意味合いがあるのだが、私の場合19歳から6年近くも住んで、この街が自分の居場所だと思って行動をしているのに、ここに居続ける権利は持っていない状況を言い得て妙で、その通りだと感心していると、「それもそうなんだけど」と彼女はいう。スウェーデン人の彼女にしてみれば、ヨーロッパの人特有の国境の入り混じった家族背景も意味に含まれていた。パスポートはスウェーデンだけれど、血縁と居住経験でイタリアにも、フランスにも、ドイツにも、イギリスにも自分のルーツを持っている。どこに行っても現地人の感覚で生活できるし、でも結局どこに行っても異邦人なのだということだった。私にしてみても、そちらの意味のローカルストレンジャーも体現しているので、頷き方に力がグッと入った。

私の生まれは上海である。5歳で来日して、19歳で渡米するまで日本で育った。文革、幼少期の食糧不足、上山下郷運動、先行きの見えなさを祖国で経験した両親は、日本に骨を埋めると早々に決断し、私が小学生高学年になると不安定な就労ビザよりも帰化を選び、苗字が日本風に変わった。今日まで中国人、明日からは日本人、そんな日があったはずだけどよく覚えていない。苗字が変わって間も無く父方の祖母が来日し、しばらく同居をすることになった。私が日本に来てからずっと住んだ線路沿いの2DKの社宅は手狭となり、近所の3LDKのマンションへ引越した。近所だったにもかかわらず学区外への転居だったため転校もし、中学からは電車を乗り継いで通う私立校に入学した。見た目で判別がつかないアジア人同士、これで出合頭に私が中国人であると知る人はいなくなった。特に秘密を持っている感覚でもなく、ただ説明が面倒なので、仲良くなった友人には「実はね私…」と打ち明けた。中学高校では自分が何人であるか深くは考えることはなかったが、閉塞的な女子校一貫校でまわりになじもうと必要以上に日本人らしく振る舞うことに必死であったのは間違いない。寂しかった鍵っ子小学生時代は、想えば心を豊かにしてくれる祖父母のいる故郷上海、そして中国人であるという周りと違う特別な誇らしさが、なんだか恥ずかしいものに変わっていった。それでも自分が中国人であることを隠そうなどとするほどに深く思い悩んではいなかったので、友人の前でも平気で母親と日本語と上海語の入り混じった電話をし、好奇の目を集めてはほくそ笑んでいた。

自分が何人か、それについて意識せざるをえなくなったのはニューヨークに留学してからである。他のどこでもなく、ニューヨークに留学先を指定したのは父だった。妹家族(私の叔母)が住んでいたからである。なので留学してすぐは叔母一家の郊外の家でお世話になった。叔母はキャリアウーマンで一家の大黒柱、それにもかかわらず、いやそれだからこそ性格は柔和で温厚、必要以上な干渉もなく接しやすかったが、彼女の夫はやや変わっていて、激しやすく、妙に細かいところがあり、子供達へは過干渉、かつ意見を押し付けるようなところがあった。そんな彼は、まずは観光!と、到着早々、時差ボケでポンコツ状態の私をエンパイアステートビルディングの展望台へいざなった。どうやってそこへ辿り着いたかも、102階の高みから見下ろす大都市ニューヨークの風景もポンコツすぎて全てが夢覚えなのだが、一つだけくっきりと覚えているのは叔父が高所で私に放った忠言であった。

「ここでは人に何人かと聞かれたら、日本人だと言いなさい。日本人と中国人では扱いが違うからね」

これを聞いた時、フラッシュバックのように、スーパーでご近所の主婦にとるに足らないことで怒鳴られていた母の姿や、お宅におじゃまして遊んだ次の日に「ごめんね、うちのお母さんがもうあの子とは遊ぶなって。だから家では遊べないんけど、私たちは友達だからね!」といった時の友達の表情やらが浮かんで消えた。こんなことを書いて、誤解されるといけないので付け加えるのだけど、私は自分が中国人だからと差別されて辛かった思い出なんてほとんどない。5歳で入園した保育園では言葉の通じない中でも楽しかった記憶ばかりなので、先生たちはとても努力してくれたと確信している。小学校でも小さく嫌だったことはあったが、自分が特別に不遇されているように感じたことはない。出会ってきた大人たちは皆親切で、優しかった。それについてはまた今度書きたいと思う。でも両親はきっともうちょっと嫌な出来事が多かっただろう。それはアメリカに移住した叔父も同じだったのだ。

単純な私は、言われた通りに留学当初、聞かれれば自分は日本人だと伝えていた。(移民の街ニューヨークでは国籍に限らず、挨拶がわりのように皆、相手がどこからきたのか来歴を開口一番尋ねるのだ。)ウソ、ではない。日本旅券を所持し、日本から来ている。だけど小さな不正直の積み重なりがストレスになり、聞かれる回数も比じゃないので、だんだん膨らんで疲労になった。『チャイニーズアメリカン』みたいな便利な言葉は私にはない。双方の国で二重国籍は認められていないのだ。「国籍は日本だけど、両親は中国人なんだ」とか、「日本のパスポートを持っているけど、出身は上海なんだ」と聞かれてもいないのに伝えるようになっていた。それでも「自分は中国人である」とはっきりとは言わなかった。『チャイニーズ』に付随する含意を無意識に避けようしていたのもあるのだろうが、それが正解ではないとも感じていたのだ。

それが4年前、上海に住むことになった。私は上海に住むことに自分でも驚くくらい胸が高鳴っていた。子供の頃夏休みで帰る度に優しくしてくれ、家族の温かみと楽しさを感じさせてくれた、大好きな母方の祖父母はもう他界してしまっていなかったが、親戚も従兄弟たちもいる。初めて自分の根っこのあるところに住めると期待していたのだ。実際上海生活は楽しく、生活用水の質や空気の汚染、食品安全などへの不安はあったが、それらを差し引いても楽しかった。街の変化を肌で感じにうろ覚えの思い出の場所へ出向いたり、幼少期姉妹のように仲の良かった従姉妹家族と遊びにいったり、お互い小さな子供がいるので、子供達が仲良くなるのも嬉しかった。ただ、自己紹介の複雑さには閉口するしかなかった。たとえば初めて会う人は、一瞥で私を日本人と判別する。それで冷たかったり、日本好きをアピールしたり、反応は人それぞれだが、私が幼稚だが発音の確かな標準語、さらにはまあまあ達者な上海語を操りだすと皆「?」となる。次いで「あんた何人?」と聞かれる。それで、初対面の人に長い身の上話をするハメになるのだ。白人とミックスの娘たちを連れている場合には、相手は興味津々になり身の上話はアメリカ時代にも至ってさらに長くなる。もっと面倒なのは、仕事相手に名刺を渡す時だ。両親は名前を日本風に変えた時、日本風にも読めて、元々の中国名の名残を残せる名を選んだ。なので苗字は漢字一字。ところがこれが厄介である。中国の苗字というのは歴史的に受け継いできたものばかりで数が限られている。苗字で大体どこの出身かもわかるらしく、人の苗字を見たときにうんちくする人が多い。両親が選んだ一字はそれに含まれない。なので、うんちくしたい人は、私が元は中国人であったと知るとその苗字の来歴が気になるらしく、名前の説明まで身の上話に追加される。

私は上海に住んで、はじめて「私は中国人なのだけれど、日本で育って帰化しているので、国籍は日本なのだ」と自己紹介するようになった。「私は中国人だ」というところから始まる正しい順番でだ。だけれど、会う人会う人、私を人に紹介するときに「この日本人は」で始める。日本で教育を受け、中国語もへたっぴで、日本人のような身のこなしをするこの人物は、彼らにとっては寸分たらず外国人なのだ。そしてそれは査証にも現れる。文字通り日本旅券の私は入国するのにビザが必要で、在留許可と就労許可を申請する必要があり、1年毎にそれらの許可査証を更新しなければならなかった。私は心の桃源郷であった此地でもローカルストレンジャーなのだった。

さて話は戻るが、私のアメリカ留学がどうなったかというと、OPTの1年が終わりに差しかかる頃、付き合っていた彼氏との間に妊娠が発覚し、籍を入れることになった。ビザが切れかかっている留学生としては、アメリカの医療保険システムへの不信感と恐怖心は強く、かつ1年間、雇用と就労ビザ問題で頭を悩ませ過ぎて疲れ果て、ビザがなくても住める場所への渇望が前面に出て帰国を望んだ。医療保険システムの恐ろしさはさておいても、今思えば、彼氏はアメリカ人なのだから結婚してしまえばビザで頭を悩ませることはもうなかったのに、ビザで頭がいっぱいすぎた私は、誰もそんなこと思っていないのに、「グリーンカード目的で結婚したと思われたくない」という勝手な先入強迫観念と、もうローカルストレンジャーでいたくない切実さで夫を言いくるめて日本に移住させたのだった。


#創作大賞2023 #エッセイ部門

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