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「教育ってなんだっけ?」を過去の名著との対談から考える孫泰藏『冒険の書』が面白かった。(ブックリスト付)

YouTubeのテレ東BIZで放映されていた孫泰藏氏と豊島晋作氏の対談を観て、とても興味深かったので、孫氏の著書『冒険の書』を読んだら、とても面白かった。


過去の教育論や学びに関する名著の中にダイブして、著者と対話するスタイルで、その著書の時代背景、なぜその思想を説いたのかを描き、現在への影響と孫氏の感じたことと考察を述べている。

各時代でそのときの状況を打破すべく、教育のイノベーションを起こしてきた過去の偉人達。
そのときに必要だったから生まれた思想ではあるが、現在ではそぐわないものもある。
かつての救済が、現在の弊害になっているものも多々あるハズで、アップデートは必要なんだよなぁ、と思う。

序盤に出てくる「禅は失敗するデザインを組み込んでいる(P89)」話と「贈り手にとって、受け手は救いとなる存在だ(P291)」という話が特にグッときた。

自分のメモとして残しているので、とりとめの無い文章になっているのはご容赦ください。
文末に、本書の作中に登場した本のブックリスト(リンク集)を作ってのでご活用ください。

第1章では


教育の起源が、30年戦争で人口の2/3を失った宗教戦争を見たコメニウスが「人々が知識を得ることで争いを無くすことが出来るはずだ」と考えで書いた『世界図絵』(1658)や、ジョセフ・ランカスターの「クラス・モニター」システム、サミュエル・ウィルダースピンの「ギャラリー方式」がもたらしたあまねく子供に教育を提供するシステムを生み出したことによって近代の教育はできあがっている。
これらは確かに教育の底上げをしたのは間違いないだろう。

ただ正解のある「教え」を受けることで、自発的な「学び」を軽んじたツケがいま巡ってきている。
「間違い=良くない」という価値観で、失敗する権利を失っているんだという結びはグッときました。

第2章では


学校で学ぶことの価値について考える。
受け身で学ぶこと「遊び」と「仕事」、「遊び」と「学び」を区別したこと、「学び」が「職業訓練」の手段に成り下がり、楽しくないものに変容してしまったことを指摘している。
人間がよりよいものになることを目指したはずの教育が「社会の奴隷」のような人間をつくってしまった。
「子ども」が「大人」と区別され、守られる存在(高尚なあるいは下等な)存在として切り離されていることにも疑問を呈す。

第3章では


「能力」を指標にすることの生きづらさについて書いている。能力に対する言葉として出てきた「アプリシエーション(appreciation)」(P186)という概念が興味深かった。「アプリシエイト」は「鑑賞する」「感謝する」という意味で、作品や製品、あらゆるものは「感謝」によって発展してきたという。「良い「作り手」は、良い「つかい手」であり、良い「わかり手」であることが多いのは〜(P188)」という感謝を持って鑑賞し利用することで、よりよい社会が作られるはずだという概念はもっと浸透してほしい。(なので『冒険の書』は褒めちぎるわけですが)

そして、本書で超重要なキーワード「メリトクラシー」が登場します。(P191)
「機会の平等」と「能力別学習」で努力し結果を出し「実績重視」で報酬が決まる社会がメリトクラシー。努力が報われる社会として描かれるが、本当にそうか??
がんばれば報われる社会というのは、報われなかった人をがんばっていないからだと追い詰める。
そして「報われた人」と「報われなかった人」の分断が起きている。はたして、それは「努力」なのか?

第4章では


デュシャンの現代美術作品『自転車の車輪』が登場する。スツールの座面に固定された車輪は、自転車としても椅子としても役に立たない。けれど、この作品はそこに「在ること」で問いかけをするという存在理由を持っている。
さらに荘子の『無用之用』を引用、世の中に不要なものなど何も無いことを示す。
そして、問題を解決するのではなく「問いを立てよ」と言います。専門家は問題を解決しますが、新たなことは生み出さないとも。

第5章では


「アンラーニング」つまり学んだことを捨てよという。学んだことを捨て、また新たに学び直し、対話することで新たななにかを生み出す可能性があるのだと。
「資本主義社会」での「やりたいこと」が「お金になるかどうか」で判断するようになってしまっている貧しさ、自分自身の存在価値を「自分自身を商品として見立てた時に、お金がきちんと払われるような価値(P282)」と思ってしまうことの息苦しさ。

4章でも述べられた「そこに在るだけでよい社会」にはならないのか?
「自立することが誰にも頼らずにすむことではなく、依存先を増やすこと(P288)」だと言うことはとても示唆がある。何者かになれない現実を嘆くかもしれないが、もし作品や商品ならばその数は必ず「作り手<受け手」になるハズで、「贈り手にとって、受け手は救いとなる存在だ(P291)」という言葉が効いてくる。全員がヒーローやアイドルのような目に見える何者になれるわけではないけれど、3章の「アプリシエーション(appreciation)」のように、感謝し鑑賞(利用)することで、世の中が少しだけ良くなる社会が在ればいいのになと思う。

『冒険の書』と対話して。


この冒険の書は、著者である孫泰藏氏が過去の名著と対話したものであるが、僕と孫氏との対話の書でもある。

教育をテーマにした本ではあるけれど、あらゆることに通じる普遍性があるので、なにか問いを見つけたときに、ああこれは冒険の書で言っていたアレだなぁと類型を見いだすことが出来る。

本書は僕にとっての『冒険の書』のひとつとなったが、誰もが自分の冒険の書を見つけることが出来ると思う。

盲目に信じてしまう「常識」は学びの結果こびりついた思考停止なのだとしたら、アンラーニングすることで新しい時代に踏み出すことが出来るのかもしれない。その時に必要なパスポートは「好奇心」なのだと思う。

教育もそうであるけれど、読書術の本としても秀逸な本だった。

ブックガイド


文中で紹介されている本を備忘録としてリストしました。
1つずつ掘り下げて読んでみたいものである。

第1章


P34 トマス・ホッブズ『市民論』(1642)

P36 トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』(1642)

P42 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975)

P46 イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』(1973)

P58 ジョセフ・ランカスター『教育の改善』(1803)

P57 ジョセフ・ランカスター『The British System Of Education』(1810)

P59 サミュエル・ウィルダースピン『A System for the Education of the Young』(1840)

P63 エリック.H.エリクソン『幼年期と社会』(1950)

P73 エリック.レネバーグ『言語の生物的基礎』(1967)

第2章

P100 イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』(1970)

P105 佐伯 胖 『わかりかたの探求』(2004)

P106 ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験:遊びの現象学』(1990)

 P111 フィリップ アリエス『〈子供〉の誕生』(1960)

P116 柴田 純 『日本幼児史』(2013)

P119 ジョン・ロック『教育に関する考察』(1693)

P122 ジョン・ロック『人間知性論』(1689)

P125 ジャン ジャック ルソー『社会契約論』(1762)

P126 ジャン ジャック ルソー『エミール』(1762)

P137 ロバートオーゥエン『オウエン自叙伝』(1857)

第3章

P157 フランシス・ゴルトン『遺伝と天才』(1869)

P164 小坂井 敏晶『責任という虚構』(2008)

P172 イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』(1973)

P186 デール・カーネギー『人を動かす 文庫版』(1936)

P191 マイケル・ヤング『メリトクラシー』(1958)

P191 ジョン・ゴールドソープ『メリトクラシーの諸問題』(教育社会学―第三のソリューション内に収録)(1997)

P207 サミュエル・ロイド『パズル百科』(1914)


第4章


P216 マルセル・デュシャン『アフタヌーン・インタヴューズ』

P223 荘子『人間世篇(荘子 第一冊 内篇収録)』(紀元前300頃)

P232 親鸞『歎異抄』(1288頃)

P249 ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『動物の環境と内的世界』(1909)

第5章

P289 斉藤 賢爾『信用の新世紀』(2017)

P291 近内悠太『世界は贈与でできている』(2020)

P301 パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(1968)

P316 ロバート・ブラウニング『アプト・ヴォーグラー』(1864)

内村鑑三『後世への最大遺物』


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