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推しが推しであってくれれば

推活をしているときの私は

『お願いだから触らないでという気持ち』

オタクに寛容的になったって、オタクはもう一つの文化と言われたって、多様性と言われても、どうしてオタクはいつも誰かに許可してもらう側なんだろう。って疑問だけが、ぐるぐると私の中を回る。


誰にも迷惑はかけていない。


1人で自分のことを楽しくしているだけだ。それを何故、現実を楽しんでないと括られるのだろう。

確かに、誰かの努力を応援して、推しが何かを達成したとき、自分は他人の努力の結果を一緒に喜ばせてもらっているだけなんだと、ふと我に帰って悲しくなっり虚しくなったらすることはあるけど、現実で出会う壁に向き合う勇気をくれるのも推しだったりする。

オタク心を理解してとは思ってない。自分の好きという熱量は他者に比例する訳じゃないってことは知っている。だからただそっとしておいてほしい。

勝手に鑑賞して、応援して

その思いに応えてくれるわけではない。でもその温度を感じない距離を心地よく感じている自分がいる。自分がファンでいる限り、推しは画面越しに紙面越しに笑いかけてくれるのだから。


きっと、都合良く私は推しを利用している。
推しは人生を楽しくするコンテンツだと、強がりながら本当はもうとっくに寄りかかってきってしまっていることも分かってる。

「なんで推しなの?」って聞かれても
じゃあ、何を心の支柱にすればいいんだろう。

友達?
現実の友達に期待して、深入りして、依存する
とても笑えない冗談だ。

眠れない夜に、不眠症で悩んだときに、 
推しの動画を観て誤魔化した夜が何回あっただろうか?眠れないからと夜中に電話がかかってくるのはごめんだ。誰にだって、明日の予定がある。それくらい分かる。

恋人?
生身の人間の依存の対象にするのは、お互いにリスクが高過ぎる。

誰かの宝物がぬいぐるみであったように、小さいころ持っていたクマのぬいぐるみを推しに持ち変えたのだ。一緒に眠っていたクマはいくら抱きしめても抱き返してはくれなかったけど、隣にいられるだけで満足だった。横にいないだけで涙が止まらなかった。それはアイドルでも然り。

触れられなくていい、何も応えてくれなくていい、
ただどこかに存在してくれたら。

私はその存在を勝手に認識して、勝手に救われる


という私のI love youの意訳です。

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