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リレー小説②「浮遊体、もしくは藍の秩序」

 旅先からの葉書を追い越したのは、これが2度目のことだった。
 旅先のホテルから出した葉書は、私が東京の自宅に帰った翌日にポストに辿り着いた。私は同居人に宛てた葉書を片手に、アパートの部屋に戻る。旅先から自宅に手紙を送ることは、私にとって旅の醍醐味でもある。というよりも、同居人に手紙を書く時は必ず旅に出る、と言った方が正しいかもしれない。
 私が同居人に手紙を書く時は、何か重大な出来事を報告する時だ。これまでも、長年飼っていた猫の死や、幼馴染が母になったことなどを報告したことがある。1度目に私が追い越した葉書は、結婚について実家の母親と揉め、絶縁にまで至った経緯を書いたものだったと思う。
 重大な出来事からは距離が欲しくなってしまう。宛先との距離もそうだが、自分の日常生活や現実の変化からも距離を取らなければならない。重大な出来事は、慎重に言葉を選び、美しく並べ、誤解の余地を無くし、できる限り丁寧に綴らなければならない。日常会話の反射神経に身を委ねるわけにはいかない。だから手紙なのだ。そして、旅先のホテルほど、同居人宛ての手紙を書くにふさわしい場所はないのだ。
 旅先のホテルに着くと、まず室内や机の引き出しの中に葉書がないか確認する。最近のホテルは、便せんや葉書を置いていないところもある。そういう時は本当に困る。だからスーツケースには、何枚か葉書を忍ばせていくようになった。ホテルで葉書を見つけると、万年筆と瓶のインクを取り出す。万年筆にインクを吸わせる。ペン先がインクの瓶の淵に当たって、少し涼しい音をたてた。インクを吸わせた後は、別の紙に試し書きをする。そして、清書に入る。
 2時間かけて、ひねり出すは1行。その1行で十分だった。無駄のない、すっきりとした文章だ。明らかに素敵だった。透明のグラスに水を張り、万年筆を洗浄する。万年筆はペン先から水中へと不規則に藍の糸を走らせる。やがてそれは水全体を染め上げ、空間は秩序を得る。ホテルの一室の、またその机の片隅に置かれたグラスに広がる紺色の小さな宇宙を眺めることが、私にとって何よりの憩いであり、労いでもあった。


 私が旅先から帰ってきた時、同居人の美雨(みさめ)は窓枠に腰かけて煙草を吸っていた。机にあるインスタントラーメンの残骸をそのままにして。外は雨が降っていた。彼女は旅先で傘を忘れたためにずぶ濡れになって帰ってきた私を見ても、動じる素振りさえ見せなかった。
「ねえ、手紙読んだ?」
「読んでない。てか、届いてないよ。多分。」
 私は彼女の態度が気に入らなかった。多分。届いているかどうかさえ確認していないのだろう。私は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し飲んだ。
「私も欲しい。」
 そう言われたから、私は美雨に自分の飲んでいたペットボトルのミネラルウォーターを半ば投げつけ、シャワーを浴びに浴室へ向かった。熱いシャワーと湯気が、私の体を包み込んでいく。雨でベタついていた肌が、一瞬にして洗い流される。ついでに体も髪も泡立てて洗った。美雨はいつも、私の手紙を読んでくれているのだろうか。私は手紙を書く度に、寄る辺を失っていることに気付いているだろうか。彼女が乱暴に机に積み重ねていく手紙は、私が募らせた孤独そのものだということに。毎回私が、絞り出す思いで孤独を言葉にしようとしていることに。
 私が浴室から出ても、美雨は変わらない様子だった。黒のキャミソールに部屋着のショートパンツ姿という、随分とラフな格好をしていた。その割に化粧は抜かりない。猫みたいだよ、と私がよく言うアイラインも引かれている。禍々しいくらいに真っ赤な口紅は、いつも煙草の白いフィルターに付着する。風呂上りであってもすぐに乾きそうな程のショートカットは、出会った頃から変わっていない。美雨は肌が白いから、赤黒い衣装は華々しくもどこか毒々しい雰囲気をまとわせる。
「お風呂、空いたよ。」
「うん。」
 無関心とも放心ともつかない声が返ってきた。実家の猫でさえ、私に関心を向けてくれたのに。少なくとも、関心のあるフリはしてくれた。美雨は私のことをどれだけ気にかけているのだろうか。
「気にならないんだ。私が昨日までどこで何をしてたのか。手紙に何を書いたのか。」
 美雨は何も言わずに、浴室へと入っていった。ゴミ箱の中に、使用済みのコンドームが裸のまま捨てられていた。まただ、と私は思う。また私は一人になる。そしてまた、どこにも行けなくなる。不透明な慣性に身を委ねて、制御の効かない体は今までと同じような秩序に収まっていくだけなんだ。
 手紙を読んでも美雨は何も変わらないのだろう。私は、自分がすり減っていくことが分かっていた。もはや姿かたちも定かではない。美雨もそれは同じことだったと思う。二人の間には何も生まれない。ただ、二人とも消えていくだけ。多分もう、消えているんだと思う。
 窓に寄って外を見る。後ろには美雨がシャワーを浴びている音が聴こえ、前には規則性と不規則性の混在した東京の景色が、灯りを点在させていた。雨はまだ降り続いている。美雨の煙草がそばにあったので、一本取って火を着けてみる。一口目でむせてしまった。先端から上がる煙は、東京の夜風に乗ってどこかへ行ってしまう。何に逆らうこともできないまま、どこか遠くへ行くよりも前に姿を消してしまう。私は灰皿に煙草を押し付けた。私は泣いていた。あの娘が風呂から上がる前に、何とかしなければ。


 それから私たちはセックスをした。凸凹のかみ合わない、どこまでもいびつで、不完全な逢瀬。それは私たちをどこへも連れて行けはしないし、何かを生みだすこともできない。私たちの体は溶けて、不規則な流体となって離散し、最後には形を失う。言いたかったことも、言えなかったことも、全ては秩序へと溶けていった。もう、逃げられないことは分かっている。結局私は、必ずここに引き戻される。


 翌朝、私が起きた時には美雨は隣にいなかった。私の体は裸のままベッドに投げ出されていた。下着や衣服を身に着けながら、昨晩のこと思い出してみる。覚えていることはそう多くはなかった。きっと美雨は夜まで帰って来ない。
 正午、私は窓枠に腰かけながら届いた葉書を眺めていた。我ながら、良い文章を書けたと思ったのだけれど。そう思って、苦笑いをする。天気は昨日の雨が嘘のような晴模様で、遠目に見えるビル群にくっきりとした輪郭を与えていた。
 東京。灰色のコンクリートと鉄道網と品のない発光体で構成された消費構造体の中を、私たちは浮遊体のようにさすらう。ベッドサイドに、美雨がいつも使っているジッポライターが置いてあった。多分、忘れていったのだろう。私はライターで、持っていた葉書に火を着ける。火のついた葉書を手に持って、窓の外にやった。煙と灰は、東京の空に舞う。あとは、美雨が帰ってくるまでに、手紙が渡せなくなった理由を準備しておこうと思った。

テーマ:「東京の記憶」に寄せて

古河 巡/ Meguru Furukawa