noteはじめます|自己紹介 第一章


はじめに


このたび、noteをはじめることにしました。

文章も得意な方ではないですし、

胸をはって綴れるほど輝かしい経歴はございませんが、

等身大に精一杯綴っていきたいと思います。


みなさま、初めまして。

杉山 大樹(すぎやま たいき)と申します。

きな樹 と覚えてください。

(花粉症持ちの方、すいません)


初投稿ということで、自己紹介からはじめさせて頂きます。

先にお伝えすると、あまりにも文章能力がなく
長文になりすぎてしまったので、二章に分けました。


それでは、
第一章のはじまりです。


1988年10月2日 埼玉県上尾市に爆誕。(生まれは上尾市です)
(華の88世代。同世代の方、どうか仲良くしてください)

爆誕後、すぐに両親からサッカーボールを渡され、
そこからわたしのサッカー人生がはじまりました。

(一応、サッカーblogではございません)

幼少期を過ごし、小学2年生で埼玉県上尾市から、

日本一暑い街「熊谷市」に引っ越し、地元のサッカー少年団に入りました。

この引っ越し、サッカー少年団への加入が、

人生で1度目の『変化と挑戦』でした。

そんな私に、
小学5年生の時に転機が訪れました。

「全国でも名の知れたサッカー少年団からのオファー」

地元で細々とサッカーしていた私にとって、              雲の上のまたその上をいくチーム。

最初は怖くて怖くて、行きたくなく、泣いて泣いて、両親にケツを叩かれ、
渋々練習に参加。

この雲の上のサッカー少年団への移籍が

人生で2度目の『変化と挑戦』でした。

*このサッカー少年団で創業メンバーの2人とも出会いました。

週に5日の練習に試合(火・木・土・日の練習、試合+水曜のサッカースクール)をこなし、リフティング100回もできなかった私が、1,000回を超えるまでに成長。(グラウンドが車でしか通えない距離であったため、両親にはたくさんの感謝しかないです)

そしてなんといっても2000年、
聖地「よみうりランド」で行われた「全日本少年サッカー大会」への出場、
それだけでなく、「全国3位」という華々しい経験をすることができました。

この全国大会での準決勝、PKのキッカーを任せて頂いたことは、
小さな小さな、私の2.5度目の『挑戦』でした。

(過去の栄光だろ、と、言われるのは重々承知しておりますが、
栄光もこれぐらいしかないので、ご容赦ください)


そして中学生。

なかなか当時でも珍しかったのですが、
通っていた中学校にはサッカー部がありませんでした。

そのため、これまた雲の上をいく地元のクラブチームにはいりました。
(中学校では部活動には何かしら入部しなければいけなく、
担任が顧問をしていた、剣道部に入部していたのは知る人ぞ知る。)

中学校でサッカーをしていたのは私1人。
学校の友達は部活動に励む中、1人で帰宅し、サッカーの練習。

相も変わらずサッカーにのめり込む日々。
上手い選手に囲まれ、毎日がレギュラー争い。

埼玉県一位。関東大会出場。
なぜが丸刈りも3年間で2回経験。
(体力的にも精神的にも髪の毛的にも激動な3年間で、中学生にしては珍しい帯状疱疹にもなりました。)

ただ、振り返ると、この中学3年間がいまの私を根幹を形成したのではと、
改めて思います。

大切な仲間との出会い、競争、家族への感謝、恩師と呼べるコーチとの出会い、諦めないこと、挑戦し続けること。

(いまでも毎年年始に集まる仲間達です)

丸々この3年間が私にとっての

3度目の『変化と挑戦』でした。


そして高校生。

自宅から自転車2台と電車を使って1時間半。

熊谷の暑さは周知の事かと思いますが、熊谷の冬の空っ風も強く冷たいのです。

だぁー!おりゃー!などと大声出しながら、自転車をこいでいたのを思い出します。

全校生徒3,000人近い県立のマンモス校。

部員数150名のサッカー部、夢の国立を目指し、部活にのめり込む日々。

恐縮ながら、副キャプテンにも任命いただきましたが、
高校サッカー3年間で埼玉県ベスト16。悔しい。

輝かしい結果で終えることができませんでした。

サッカー三昧だった小・中・高、、

ん、、

サッカーしかない。。


どこか、自分の中で、サッカー以外のことも経験したい!という想いが強くなっていっておりました。

・・進路の決断。

大学は行こう、と思っていましたが、サッカーしかやってこなかった私。

サッカー以外のことで何か挑戦したい。

そう思い、カリキュラムの一環として留学ができる大学への進路を決断。


そして大学生。

両親に頭を下げ、奨学金を借り、カラオケ店で深夜アルバイトでお金を貯め、なんとかアメリカ留学へ。

これが4度目の『変化と挑戦』

ビーフ or チキン?の返しだけを覚えて乗り込んだ、初めての飛行機。

(結局、機内で寝てしまいせっかく覚えた"chicken"の発音も使うことができず、シートに置かれていたのは固い"beef"でした)

初めての海外。
喋れない英語。
壮大な国。多様な文化。

毎日が挑戦の連続。毎日英語に食らいつく日々。異国文化への順応。
ルームメイトが自分でアラームを止めたのに、なぜか私のせいにされて、
「君のせいで大事なテストが受けられなかったんだ!」と言われても気にしない忍耐力。

・・この留学がきっかけとなり私のサラリーマン人生に変化をもたらすとはいざ知れず。。

アメリカ生活のことはいつか綴る(たぶん)として、
無事に帰国し、普通の大学生に戻り、サラリーマンになるべく就職活動。
(サラリーマンになる以外の選択肢をもっておりませんでした)


そして就職。

サラリーマン人生最大、そして人生にとっても大きな
5度目の『変化と挑戦』 が待ち受けておりました。

留学の経験はあったものの、中身のないありきたりな大学生・・

両親に頭を下げてまでトライした留学。

とにかく、何者でもない私にとって、貴重な留学経験は活かすしかないと思い、「グローバル」に羽ばたける、繋がれる企業へのアプローチを重ね、2011年、就職。

営業として配属。

持ち前のチャレンジ精神を存分に発揮だ!!
と気合いMAX!、が、赤ペン先生かと思うぐらい上司からの見積・資料の添削三昧。上がらない売上。

(厳しくも、一つずつ丁寧に学ばせて頂いた上司には、本当に、感謝の言葉しかないのは言うまでもありません)

鳴かず飛ばずの2年。

・・グローバルに羽ばたく?

入社してすぐに記入した自己申告書には
「5年間営業として実績を残し、6年目には海外駐在する」と書いていた自分が情けなく、甘過ぎました。

・・理想と現実のギャップ

それでも前に進む。負けない。
目の前のことに集中し、やれることできることを丁寧に繰り返した3年目。

とある展示会、些細なきっかけでアテンドしたお客様。
特段、商談になることもありませんでしたが、後日、連絡を頂きすぐ訪問。

お客様の構想と提案できるものの大きな乖離。
でも実現できたら、お客様にとって大きな価値となる。

ハードルが高い内容だからこそ燃える。
関係部署へ連絡を繰り返す日々、難しいと言われ代案を出される日々、
仕入先の開拓。

足掛け2年弱だったと記憶しております。
地道な努力を続け、4社のコンペを勝ち抜き、無事に受注できた時のことは
今でも忘れません。

この時は、特許出願までできたプロジェクトも同時並行しており、
挑戦の毎日、それでも楽しい日々でした。

その年のお正月。
当時の支社長から一通の年賀状。
昔、中国駐在していた支社長からの年賀状には、中国語で書かれた一文が。

自分なりにググってみると、
「海外でなんちゃらかんちゃら・・・」

??

???

????

謎です。

が、

それが、5度目の『変化と挑戦』への切符だったということは後に知ることに・・。

5度目の『変化と挑戦』。

海外駐在 が決定。

場所は、

イ、ン、ド。

印度!! インド!! INDO!!


第二章へつづく…

こんな感じで綴っていきます。

どうか温かく見守っていただければこの上ない喜びと、

励みになります。


杉山 大樹

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