見出し画像

内省

一人の時間が好きだ。
一日を終える前には必ず必要だ。

単純に、誰にも気を遣わずにすむからだと思っていたのだけれど、それ以上に“誰かに見られている”というのが嫌だからかもしれない。

昔から自己肯定感が低いので、克服するべく色んなことを試してきた。挫折も離脱も多い人生で、失敗しちゃう自分でもいいじゃないかと思えるところまではきている。
厄介なのは、この性格の根底には「もっとできる自分でありたい」という思いが潜んでいること。

できない自分でもいいと受容したフリをして、実はできない自分にいつも失望している。
だって、周りにはいとも簡単そうなことができないのだ。生きることすら危うい時期もまだある。人と会うことも、働くこともできない。家のことも得意ではない。それはやっぱり自分が劣っているからだ。

そうやって散々卑屈になった後に「ま、これも自分だもんな」と受け入れる。調子のいい時だけ。
調子を崩すとまた「やっぱり何もできないな」と落ち込む、ということを繰り返している。


本当はできる自分でいたかった。
誰とでも笑顔で接し、それを苦痛と思わない人でありたかった。
朝から晩まで外で活動的に過ごし、働いた後に呑み交わす時間を楽しいと思える人でありたかった。
夢や希望のためなら突き進んでいける精力的な人でありたかった。
家事も難なくこなし、家族には毎日美味しい手料理を振る舞う良妻賢母でいたかった。

できないくせに、誰かの前ではそうあろうと努めてしまう。
だから一人でいたいのだ。
理想の自分を演じなければいけないと勝手に苦しめられる。それが幼子の存在であろうと。
だから、たった一人でいたいのだ。
自分は自分でいていいと、自分自身が許せる時を過ごしたいのだ。

馬鹿げてるのはわかっている。
演じたところで誰の目にも、本当はそんな風に映りはしないのに。
一人で空回って焦って転んで、「いやいやそんなことになるならじっとしててくれよ」と呆れられているに決まっている。という被害妄想も止まらなくなるので一つも良いことはないとわかっている。


夫が昨晩、ここのところ不調の私にこう言った。

「自分の理想があるんだね。今のままで十分なのに」

あぁ。すべてバレている。
言ってほしい言葉でさえも。


一人の時間が好きだ。
一日を終える前には必ず必要だ。

だけど一人では癒えない傷だらけだ。

できない私を許してくれているのは
本当は世界の方で、
できない私を一番許してあげられていないのは
本当は私の方かもしれない。

一人で考え込まないと、こんなことにも気付けない。



.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?