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娘は、あの日の私の涙を流している。

「もっとすごいって言ってほしかった」
「褒めてほしかった」
「できるとこ見ててほしかった」

そんな言葉が多く出てくるようになった娘。
毎日元気に生きててくれるだけですごいよ嬉しいよ、と声をかけてるがまだ足りないよう…難しい。
「みんなにかわいいって言われたいから」という理由で服を選んでみたり。悪いことじゃない。わかってる。それが出発点で良いのだとは思う。
ただ、承認欲求だけ高く自己肯定感の低い人にはなってくれるなよ…と震えてしまう。(反比例するものだけど)

どうしたらいいのかな。
弟と比べてしまうのだろうか。
夫は「褒めてほしいから"上手に"遊ぶ、みたいなのはよろしくないよね。ちょっと今まで褒めすぎたせいで欲が出てるのかな」と言う。
ごもっともだけど、この子はまだ満たされてないからなんじゃないかと思ってしまう。ここで素気なくしたら悪化しそうな…わからんけど…

足りないから満たす。
それでも足りないと言われたら、もうあげられないよと拒絶していいものなのか?親以外からの評価も求め始め、得られないと癇癪を起こす。

親はいつだって安全で安心な基地でありたい。
どんなあなたでも受け入れられる場所でありたい。
うんうん足りないんだよね、と抱きしめてあげられるだけの心の余裕がほしい。
なのに現実は違う。独占欲が強かったり、承認欲求のために独り占めして自分だけが評価を得ようとしたり、そんな場面を見るとつい、そのやり方は間違っていると指摘してしまう。

すると娘は、本当に悲しそうに、辛そうに、大粒の涙を流して「もっとすごいって言ってほしかったの」と泣き叫ぶ。
「かなしーよーおこらないでーほめてほしかっただけなのー!」と。





さっきまで泣き喚いていた娘を思い出しながらここまでつらつら書いていて、わかってしまった。


これは私だ。
思春期の、私だ。

すごい!よく頑張ったね!
ってもっともっと褒められたかった。
母に。父に。先生に。友達に。みんなに。

母は、私が試験で90点台を取っても「満点じゃなかったんだね」と言う人だった。成績を持ち帰るとすぐに順位を聞く人だった。上位にいても前回より下がった教科に目を向け、「その成績ってどうなの?」と周りと比べる人だった。
当たり前に、私は良い大学に行き資格取って食いっぱぐれない人生を送ると期待している人だった。
確かに中学受験をした段階ではそれなりに良いペースできていたはずだった。

けれど数年後その期待に押し潰され、文字通り壊れてしまった私。


母の思いを知ったのは和解してから。
「周りの人間に怒られるより、私が叱りつけて正してあげれば良いと思ってた。家の外でたくさん怒られて育った自分と同じ思いをさせなくてすむように」
それを聞かされた時、母も、私を愛し幸せを願ってくれていたことには違いないのだと心がほぐれた記憶がある。素直に嬉しかった。認められていなかったわけではないのだと。


娘よ。
今のあなたは、親の愛に飢えていた私みたいだ。
ママが世界一!なんて、まだ幼稚園児だから当たり前のことだけどね。
あなたがとても優しいのを知ってるよ。本の裏表紙、悲しい顔をしたアンパンマンの絵に絆創膏を貼ってあげたところ。大好きなお菓子を「ママも食べたいって言ってたでしょ?」と覚えててくれて半分こしてくれるところ。私が元気のない時には「寝てていいよ、娘ちゃんは向こうで遊んで待ってるね」と背中をとんとんしてくれるところ。弟のお世話を手伝ってくれるところ。「これは弟くんと一緒に食べるの」と、弟が昼寝から起きるまでおやつを我慢するところ。

パパやママにたくさん大好きと伝えてくれるところ。
ユーモア溢れる話が上手なところ。
悪いことをした時はちゃんとごめんなさいが言えること。
どんな気持ちで何をしたのか、自分の言葉で教えてくれること。
たくさん泣いても、最後にはちゃんとお話してくれるところ。

書ききれない。あなたの素敵なところ。

でもその全てが「褒められたい」につながっているのなら、この先どこかで修正しなければいけないのかもしれない。
それとも、今後関わる社会が拡がれば自然に変化できるものだろうか。


正解のない育児。教育。
正しい人生などない。

これからの人生、なるべく傷付かず辛い思いをせず、なんて思っていた。
たけどその先にあるのは恐らく母と同じ思考だ。両親からだけの教育や躾の範囲を超えた時、子供に期待を押しつけていくだろう。それも無意識に。自分では、子供の幸せを願っているつもりで。
傷付き、辛い場面に出くわすことは成長するための通過点であり加点ポイント(人としての)であり、幸せに感謝できるようになる近道だと私は思う。


親子は鏡みたいだ。本当に。
世代で受け継がれていく様は合わせ鏡だ。永遠と親子関係は似てしまう。
虐待を受けた子は虐待をする親になり得る、その危機に直面する、とはよく言う。これは悪いことではなく、親子関係を見つめ直す機会を得られるということ。
どこかで必ず、幼い自分の姿を我が子に重ね、満たされなかった思いが蘇る瞬間があるはずだからだ。
育児には、正解も間違いもないくせにスタンダードな道筋みたいなものがあり、なのに自分の経験したものしか知らない。それをいざ我が子に提供しましょうとなれば、世間的なやり方とのギャップに苦しめられたり、自分のトラウマも引き起こされて当然のシステムであると私は思う。
親子関係とは、自分が背負っていたはずの課題を、いつの間にか子になすりつけていく、みたいなことの連続だと思えてならない。

だから私は、この子と一緒に考えていきたい。
「お母さん、それはちがう」と言ってもらえる場所にいたい。愛し方も叱り方も距離感も、間違えていたら意見してもらえるような、ちょっと頼りないくらいの母ちゃんがいい。
あ、いや、ごめんね。ほんと。努力はするよ。

娘の今日の涙を絶対に忘れない。
あの叫びを絶対に忘れないぞ。

どんなあなたも抱きしめるよ。
褒められたいあなたも、そのせいでちょっとこじらせちゃうあなたも。
結果、承認欲求の塊みたいな大人になっても。
それがあなたなのならなんでも良い。

こんなこと、親しか言えない。
親さえ、言ってくれればいい。


私はそう思う。
いつかもっと大きくなった時、こういう話をたくさんしよう。
それまではやっぱり、あなたのその欲求丸ごと抱きしめるよ。



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