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ちちんぷいぷい♪ 古来より伝わりしおまじないが最先端医療を上回るようになぁれ!!

「三つ子の魂百まで」ということわざがある。
皆さんもご存知の通り、これは「鬼が遠足に行くときに持っていける幼子の魂は百個までですよ」という意味である。そして先生がこれを言うと、「地縛霊は魂に入るんですか」と茶化す小鬼が必ずいるというのも、すでに使い古されたあるあるネタだ。

違う。

本当は、「幼い頃に身についた癖や性格は、大人になっても変わらない」という意味か。
それとも「幼い頃に嘘ついた奴の性格は、大人になっても変わらない」という意味だったっけか。
それとも「幼い頃に傷ついたときの記憶は、いつまでたっても忘れられない」というつらい意味だったか。
いや、もっとフランクに考えて、「知らないうちについたカレーうどんの染みは、すぐに洗ったとしてもなかなかとれない」という意味だっけか。だいぶ離れちゃった。


私にも小さな頃からの習慣や癖が今でも残っているなと感じることがある。

先日、超ウルトラスーパー猛烈お腹痛い案件を抱えることがあった。
薬もきかなければ、にわか仕込みのホイミやケアルも全然きかない。
だからあのときやっぱり、大学なんか行かずに魔法学校の回復呪文学部に進学しておけばよかったんだよ。

そうこうしている間にも、お腹の中ではサンバカーニバル隊が激しいダンスとともに行進を続けている。ホイッスルの音が腹部中央の奥から鳴り響いてくる。
椅子に座ろうが、一回横になろうが、一回ひねり前転跳びを決めようが、一向に痛みが治まる気配はない。
追い込まれた私は無意識のうちに、子供の頃、おばあちゃんから教わったおまじない「お腹の痛いところにバツ印を書いて『治れ、治れ、治れ、治れ……』」を繰り返していた。

それでよくなったかというと、決してそんなことはないのだが、小さい頃に身についたおまじないという必殺技は、今でもそらでコマンド入力できるほどの鮮明な記憶として我が身に刻まれている。

他にもおまじないにまつわる思い出はある。

小学校一年生のときには、いい夢を見て眠ることができるというおまじないをよくやっていた。寝る前に右のかかとと左のかかとを三回トントントンと合わせるというおまじないだ。

社会人一年生のときには、なにもかも忘れて眠ることができるというおまじないをよくやっていた。お酒を飲みすぎるというおまじないだ。


左の手のひらがかゆいときには「金」という字を手のひらに三回かけばお金持ちになるというおまじないも、たしかおばあちゃんから聞いた。

おばあちゃんはお金持ちではなかった。きっと手のひらがかゆいときなどなかったのだろう。

「おまじないなんか信じるか。全ては自分の力で切り拓いていくのだ!」と息巻く現実主義者も、小さな頃には「痛いの痛いの飛んでけ」という有名なおまじないをくらったことがあるはずだ。

当時の私は、痛みはいったいどこへ飛んでいくのかが不思議でならなかった。「飛んでけ」というくらいなのだから、なんらかの飛行手段を持っていたことが推測できる。羽か? いや、痛み自身が意思を持ち、羽を羽ばたかせるとは思えない。では、風船をつけて浮かせる? いや、だいたいこのおまじないを使うのは子供が痛くて泣いているときだ。そんなときに痛みに風船をくくりつけて飛ばしたら、子供なんていうのは三度の飯より風船が好きなんだから、その痛みを再び自らの元へ引き戻してしまうことにもなりかねない。とすると、なんだ。飛行機か? わざわざご丁寧にチケットをとり搭乗手続きまでしてやるのか? 本当に大丈夫か? もし痛みくんが高所恐怖症だったら? 「絶対に地に足がついていなければ動かないよ」と言い出したら? そのとき急遽、新幹線のチケットを手配できるのか? 空港内では「伊丹行きの痛み様」とアナウンスをかけられたりしないだろうか。

そう考えると夜も眠れなくなり、私はなるべく痛み自体を生み出さないよう慎重に生きる子供となった。
といっても、これはまだ五歳くらいの頃の話。
時がたち、大人になるにつれ、飛ばされた痛みというのは、重力に反発する性質を持っているため、すぐに上空へ舞い上がるという専門的な知識を理解できるようになっていった。「なるほど、便利なものだな」と感じたのは中学生くらいの頃だったか。
しかし、便利なものには必ず負の側面というものが備わっていて、上空に飛ばされた痛みがたまりにたまって、もはや飽和状態だということも最近の研究でわかってきた。我々の飛ばしてきた痛みたちが遥か上空で強烈なエネルギー体となり、いつ暴発してもおかしくない状況になっている。
みなさんも経験したことがおありではないだろうか。ぶつけた記憶もないのに青あざができていたり、原因がよくわからない関節の痛みがあったりという事態を。これらはかつて飛ばされていった痛みたちが、人間の生活圏内に再び戻ってきているということのなによりの証左である。

研究者たちはお空にたまった痛みを「放電」ならぬ「放痛」できないものかと、日々、頭を絞っているようだ。彼らの今後の研究に期待しよう。

私のような素人に言わせれば、なんとかこの痛みをクリーンエネルギーとして利用できないものかと思うのだが、ことはそう簡単ではないようだ。こちらの分野に関しても、今後の研究に期待したいところだ。

ここまで書いてようやく、発作的な妄想はおさまってきたようだ。飛んでった痛みの話、長すぎるわ。キーボードを叩くとこれだから困る。どんなに真面目に書こうとしてもこうなってしまう。
私は額に浮かぶ汗をふき、たかぶる心臓の鼓動を落ち着かせるため、手のひらに「人」の字を三回書き、呑み込んでおいた。

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