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母だってケアしてほしい

世の中のお母さんてすごいなといつも思う。

どのお母さんも、降りかかってくるいろんなことに対応してる。

でも、決して平気ではなかったりする。



友人の一人が【en活】という活動をしている。

この活動で、ゲストとしてお話をさせてもらった時のこと。

息子さんが車椅子を使うようになったとき、
息子さんの気持ちをどうフォローしたんですか

と聞かれた。


もう5年も前のことで、その時の記憶をたどるのにちょっと時間がかかった。


思い出したのは、息子には気持ちのフォローはあまり要らなかったこと(運転操作のフォローは必要だった)。

そして、車椅子にすることに私が抵抗していたということ。


無理させずに車椅子を早くから使ってねと先輩ママから言われていたにもかかわらず。

抵抗していたのはいろいろな理由があるのだけど、それはまたいつか。


今日は、息子が車椅子を使うようになった時の母としての私の思いについて。

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冒頭の質問をしてくれたかたは、

車椅子を使うようになることは本人にとってショックだっただろう、

という優しい気持ちがあったと思う。


そういう場合に周りはどうケアしたらいいのだろう、と。


一般的にはそういうケースが多いと思う。

事故にあったり、病気になったりで、「歩けなくなってしまった」ということの象徴としての車椅子だったりするから。


でも、息子の場合は、必ずしもそういう面ばっかりではなかったな、と思い出した。


車椅子を使うようになるまで歩くことを頑張っていて、それはとても大変で、車椅子を使うようになることは彼にとって福音でもあったと思う。


息子は、小さい頃から乗り物が大好きで、ミニカーをうちの中の壁という壁、床という床、あらゆるところを走らせ、一発で車庫入れさせる技をよく磨いてた。

車椅子は彼にとって乗り物の一種に過ぎず、そこに一般的なネガティブなイメージがなかったらしい。

車椅子を使うようになることは彼にとって楽しみでもあった。


フレームを何色にしようか。

クッションは何色にしようか。

って、自分好みの愛車を仕立てるように決めていったの。

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車椅子に乗ることになることに対して、わだかまりがあったのは、母である私の方だった。


病気が進行してしまったという気持ち。

あんなにいろいろ試して、二人で頑張って、歩ける状態を延ばしてきたけど、ダメだったか、って。

こうなるまでに病気を治したかったのに、って。

守れなくて悔しい、って。

そう、悔しかった。

それが私の気持ち。

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では、当の本人の息子はというと、

自分の好きな色を指定して出来上がった車椅子を見て、すごく嬉しそうだった。

にこーーーっと笑ってた。


それを見て、私は、「そうか、車椅子に乗りたかったんだな」と思った。


息子が乗り始めた車椅子は、電動アシスト付きの車椅子。

上半身がまだまだ元気に動いていたから、動くところはしっかり使うことで維持して欲しいと思って、電動ではなく、電動アシスト付きにした。

電動アシスト自転車と同じで、手で車輪をグッと漕ぐと、モーターがアシストしてグンと前に進めてくれる。

この操作は簡単なようで、結構難しい。


歩道って、平らなように見えて勾配があることが多い。

水はけのためだったり、車道から宅地への侵入のためだったり。

この斜めな道というのは操作がとても大変。

足で歩ける人は、この勾配を無意識に修正しながら歩いてる。

でも、お年寄りや足が使いにくい人には、この多々ある勾配は本当に厄介。

街は健常者向けにできていることを思い知る。


車輪をまっすぐにしていても、勾配に引きづられて車椅子が斜めに進んでしまう。運転している側はそんなつもりはないのに。

車道に出てしまいそうになることがたびたびあって、私はなんども「危ない!」って叫んだ。


最初のうちはそんな感じだったけど、だんだんと操作が上手くなり、私は登校についていかなくても大丈夫になった。

彼は車椅子に乗ることで、行動範囲が広がって、一人でカフェに行ったり、DVDを借りに行ったり、やりたいことをできる時間を楽しむようになった。

どこに行くにも私がついていなくても済むようになって、私には、私の時間ができた。


息子を知る私の友人から、○○で会ったよ!あんなところまで一人で行けるんだね!すごいね!と連絡が入ったりして、何気にみんなに遠くから見守ってもらっていることもありがたかった。

そうやって、自分の行きたいところに行ってやりたいことをやっている様子を知って、私は、

「ああ、車椅子に乗ることをこの子は本当に楽しんでいるんだ」

って思った。

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元気な状態を維持できなかった、という私の悲しさは、【私の】思いだった。

まあね、親は元気でいて欲しいと願うもの。

だから、そう悲しく思った自分のことをいけないとは思わない。


だけど、私がこうあってほしいと願う枠よりもずっと広くておおらかな枠を息子は持っていて、それを私に見せてくれた。

車椅子は不自由だと思っていたけど、そこには自由もあった。

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一般的には、車椅子に乗る事態になった本人の気持ちをケアすることを考えるんだと思う。

それはごくごく当たり前のことだと思う。


でも、その時に、介助側になる、本人の周りの人の気持ちは置き去りにされてないだろうか。


そりゃ、本人は大変だと思う。

大変じゃないなんて思ってないよ。


でもね、その人を支える周りの人にも、やっぱり何らかの思いはあって、それを表に出さないように我慢して、押さえ込もうとしてしまうのではないかと思う。

気づかないうちに溜まっているかも。
(私は、この車椅子のことではないけど、押さえ込んで押し込めていたある気持ちについ先日気づいて号泣した)

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周りの人の気持ちのケアも、ご本人のケアと同じくらい大事だよなって思う。

周りの人が元気に楽しく支えることが、ご本人にとっても大事だから。



息子が乗りこなすようになったその車椅子に、しばらくして私も乗ってみたことがある。

息子の愛車なので、内心、「失礼します」って思いながら。


そしたら、本当に難しかった。平坦に見える廊下でさえ、まっすぐ進まない。
微妙な凹凸や勾配があることに、乗ってみて気づいた。


嬉々として乗りこなす息子は、やっぱり、車椅子に乗るという経験を人生においてやりたかったんだろうと思った。


そう感じるようになって、私は車椅子に乗る彼の姿を見ることが苦しくなくなったなって思う。

一緒に楽しめるようになったと思う。

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