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「ダラダラしなさーい!!」


 「早く宿題やりなさーい!」

 「早く起きなさーい!」

 アニメなどでよく使われる、世の母親達のパブリックイメージである〇〇しなさい構文。

 時々、自分が母親になったら子どもをどのように育てるのだろう?と考えることがある。
そして、そう考える度に自分が母親に向いてなさそうだなと実感する。

 私の母は、どちらかと言えば〇〇しなさい構文はあまり使わない親で、そのおかげか私は自主的に物事に取り組むことが億劫では無かった。100%できているとは限らないけれども。
 学生時代の勉強や課題は、“やらされている”感覚でいると必ず途中で集中が切れてしまう。これは勉強に限った話では無い。
 人は、自ら行動しようとした瞬間に周りから指摘されるとやる気が無くなるらしい。
そりゃあ人間である以上、気分の上がり下がりは避けられないものであるし、拒否反応がでるのは仕方が無いことだ。

「早く宿題しなさーい!」

と親に促されたとしても、いざ机に向かって取り組めるのはせいぜい15分程度。
自分でやろうとして机に向かった場合とでは、集中力の維持が格段に違ってくるのだ。

 その“自主的に”の姿勢を子に願いつつ、全国の母達が愛の鞭で〇〇しなさい構文を使うのかもしれないが、私は前提として親も子も互いに「一人間」であるという距離感を持って関わることが大切なのではないかと考えている。

 “親”や“子ども”などの関係性を関係無しに、いわば友達と同じように接するという視点もあって良いのではないだろうか。
そうは言っても、血縁の関係にある“家族”という間柄が特別であることには変わり無い。
ただ、家族という近しい関係だからこそ見えすぎることが多いが故に“距離感”を失ってしまうこともある。
それの何が懸念点かというと、“これが普通”が形成されてしまうということ。

 「この子はこういう性格だから」

 「親に話してもこう思われるだけだから」

 長い時間を共に過ごす仲だからこそ、このような正常性を形作ってしまい、少し違和感があると無意識に干渉するようになる。
親には親として自分の子どもへの責任があり、物を言う権利もある。それと同時に、子どもにもそれを聞いた上で自ら選択する権利もある。
親だから、子どもだからという前にお互いに一人間であるという意識さえ頭の片隅に置いておくことができれば、おそらく道を外れることは無い。

 子どもは、実は意外と親の知らない間に学んでいるのだ。家族という“内”から社会という“外”へ出てみると、誰でも何らかに束縛されてちゃんと緊張することができる。
小学校や中学校はその訓練のような場所。子ども達にとっては嫌でも社会と対峙することになる機会である。
このような環境をどう活用するかはまた、子どもの自由であり、その本人の責任。
 だから、家に帰ってきて宿題もせずにダラダラ過ごしているというのは、“内”がちゃんと息抜きできる場所であると子どもが感じられている証拠ともいえるのだ。

 「ダラダラできている」

 家でダラダラしないとどこでダラダラするんだ、と言ってしまえば傲慢だが、家という空間は家族にとって脱力できる場所であって欲しい。
あまりにも宿題をしないようであれば問題かもしれないが、結局はやるはず。
放任主義のように見えるかもしれないが、おそらく干渉しすぎてしまうよりは良い距離感で放っておくくらいが子どもにとっては丁度良いのかもしれない。
これもまた、絶妙なバランス加減が必要である。

 でも、子どもって意外と大丈夫ですよ。
(誰目線?)

 「ダラダラしなさーい!!」

というお母さんが現れると、面白いよね。

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