貸し借りを帳消しにする
(追記)本記事はこちらのアドベントカレンダー企画に参加しています。
今日の礼拝ではマタイ5:38-48が読まれた。
イエスが語った言葉の中でも有名な、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」や「敵を愛し、迫害をするもののために祈りなさい」という言葉のある箇所だ。
説教で、「わたしたちのなかには『やられっぱなし』は間違っているという感覚が深く根付いているし、また聖書にもそのような考え方がある」と牧師は話していた。
主の祈りにある「われらの罪をもゆるしたまえ」の「罪」は、聖書では「負い目」のことだという。誰かが自分に不当なことをしたら、相手に貸しを作ったと考える。貸したものは返してもらわなければならない。だからやられっぱなしだともやもやするし、あるべき状態にしなければならないとわたしたちは思う。
これを聞いていて、私は前から考えていることを思い出した。
以下は、石川明人『宗教を「信じる」とはどういうことか』を読んで書いた文章(正確にはいろいろ書いて下書きに眠らせている中の一部)だ。
したがって本の内容を一応踏まえたものではあるが、正直それをダシに自分の考えをまとめているだけなので、これ単体でも読めると思う。とりあえずそのまま載せる。
神が全能であるのならば、この世に蔓延る悪を放置している神をどう捉えるか。
個人的にはどう解釈すべきかよりも、「人は理不尽なことに直面すると理由を作って納得したがるが故に、神に原因を求めようとする」ということそのものに目を向けたい。
本書でも言及があるが、(原因を特定の事物に帰すことができない)物事は全てランダムに発生するというのが自然現象として普通のことであって、そこに何らかの意義を見出そうとするのは人間特有の思考だ。
悪いことをすれば悪いことがあり善いことをすれば善いことがあるのが普通だと思う、あるいはそうあってほしいと願うのは、あくまで人間の尺度にすぎない。
しかし、このように悪を神に由来しないものとして捉えると、善についても神に感謝することができなくなるという指摘も本書にはあった。
これは逆で、「神のおかげにすることができる」ことに意味があると思っている。
個人的な実体験を例に話をしてみる。
私は、自分のせいでやらかしたのに周りの人から一方的に良くしてもらって助けられると、喜びよりも申し訳なさが勝ってへこんでしまうことがある。
こういうとき、その人個人に対する感謝とは別に、敢えて悪い言い方をすれば神に責任をなすりつけることができる。
「神様がそうしてくれたのだから…」というのは折角の好意に対して後ろ向きすぎるかもしれないが、ともかく、後ろめたさのやり場になってくれる第三者が存在するとそれだけで幾分気が紛れる。
悪いことをされる側か良いことをされる側かの違いはあるが、本質的に同じ話をしている。
つまり、「人は一方的に貸し/借りのある状態をよしとしない」ものということだ。
だから私は(神という第三者を用意することで)借りを少しでもなかったことにしようとするし、聖書でイエスは(人はそれをよしとしないものだという前提の上で)借りを返してもらうことを放棄せよと話していた。
ここでイエスの言う借りは、見返りを期待して善行をするどころの話ではない。悪人に復讐せず更に施しをするというかなり無茶苦茶な要求だ。
しかしそれを通して、逆説的に本来の人間の姿が描かれていることの方に私はむしろ意味がある気がしている。
礼拝の説教を聞くようになって、気がつけば半年近く経つ。
私は神を信じるということはよく分かっていないが、聖書に書かれていることを「より生きやすくするための考え方のヒント」として取り入れることはできると思っているし、そういう視点から話も聞いている。
(これとは別に物語として/多くの人々に受け容れ解釈されたテキストとしての興味もあるが、今回は関係ないので割愛)
今日聞いたイエスの話は極端で、言っていることをそのまま飲み込むのはとても難しい。
でも考え方を少し変えて、「借りが返ってこない/借りが返せない状態を受け入れる」くらいなら、心に留めておくことはできるのではないか。
人間は不完全だからこそ、帳尻を合わせることに厳密に拘るよりは、ゆとりを持たせた方が楽に生きられることもあるかもしれないと思う。
説教の配信アーカイブ↓