201206 キャメロット前編初見感想(ネタバレ注意)

昨日公開されたキャメロット前編を観、音が良い別の劇場をはしごしてロシャオ吹替版を観て帰ってきた。ロシャオ、吹→4dx→字→吹 で四回目か。これだけ頻繁に映画館に足を運ぶのは初めてだし、引っ越す前は絶対に無理だったと思うと、純粋に嬉しくもあるし虚しくもある。

キャメロットに関してはね………ベディヴィエールがfgoの最推しなので…………。

ゲームのストーリーでは基本ひとつの立ち絵に表情差分がつく程度の変化しかないので、推しが動いて喋って戦っているだけでおかしくなりそうだった。普段見る機会がほとんどない後ろ姿がたくさん映るだけでこんなに興奮するものかとか、市井の人々に紛れる彼の背の高さを感じたりとか、ゲーム内立ち絵のかわいい寄りな絵柄と劇場版の凛々しい寄りの作画のギャップにやられたりとか……。

映画を観るにあたって原作(以下6章)の復習はしてこなかったため細かい話の展開はほとんど覚えておらず、帰ってから夜通し6章を読み返して寝付けず今に至る。あれを読んでから寝ろというほうが無理な話だ。ちなみに昼からもう一度観に行く予定。

限られた尺に収めなければならないので当たり前だけど、劇場版で如何に削ぎ落とされたかを知るたびに、6章にしかない細々とした台詞を見るたびに、原作も映画もそれぞれがそれぞれのやばさを抱えていることを見せつけられて狂いながら読んでしまった。
映画だけ観ても内容が理解できるように、カルデアの他の話に関わる部分はまるまるカットして映画内で完結することしか扱わないと思うんですが、それでこんなに胸が苦しいことがあるかと。他の要素が削ぎ落とされるほど、私に刺さる刃物が研ぎ澄まされていく。

序盤でベディが一行と初めて会いマシュを助けるシーンの代わりにベディをアーラシュに会わせた意味についてずっと考えてしまう。本題に入るまでが長いので端折るのは分かるんだけど、端折って必要な部分を抽出した結果残ったのがそれか、という。
「導入を端折るために結果的にそうなった」辺りが現実的だろうとは思うのだけど、「後々の展開のために印象づけるのを狙ってそうした」可能性がちらりと脳裏によぎってしまう。
一行と前もって会わないならルキウスと名乗るくだりも要らないのでは?でもアーラシュに名乗る形で残した。そもそも6章でベディがベディだとバレたのはどのくだりだったっけ?……だめだ分からなくなってきた……双方の展開をそれぞれ時系列で書き出さないと……

ゲームと映画では表現の仕方がまるきり違うから後編がどうなるか想像もできないし、何をどこまで拾うのか分からなくて怖い。原作つきの映画化で原作ファンが何をどこまでどう映画にするのか戦々恐々とするのってこんな気持ちだったのか……。

アトラス院みたいなこれは絶対やらんでしょというのはいいんだけど、ベディが泣いているのをマシュが見つけるところなんかはやっても映像化の衝撃で死ぬしカットされてもそれはそれでショックだしどういう心持ちでいればいいのか分からない。そもそも序盤の石になっている彼だけで相当堪えたのに、聖剣を獅子王に返すシーンとか本当にやるんですか!?これは流石にやらないわけにはいかないだろうが……メンタルが保たない………

あと

カルデアの他の話に関わる部分はまるまるカットして映画内で完結する内容しか扱わないと思うんですが

これを忠実に実行すると最後の「獅子王の存在は決して無駄ではなかった」という話がかなりしづらいのが気になる。敢えて含みを持たせる形で残すのか、はたまたばっさりカットするのか、果たして。

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