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遠くに行きたいと願ったらイスラム教徒になっていた…

「ここじゃない。どこか別のもっと遠いところに私の居場所はあるような気がする」

いつも、いつもそんなことを感じながら生きてきたような気がする。流行に乗ってみたり、旅をしたり、田舎や海外で暮らしてみたり、子育てをしていても、いつもいつも、なんとなく満たされないような、物足りないような。


そして色々あった末にイスラム教徒になった。(2016年1月に改宗)


普通の日本人…なにをもって普通の日本人とするかは難しいが、例えば、イスラムに改宗する前の私のように、死ねば仏教の寺で葬式、初詣は神社で、結婚式はチャペルで挙げて、お盆、バレンタインデー、クリスマス、ハロウィンも楽しく過ごして、酒も飲むし、恋愛もおしゃれもなんとなく人並みに楽しんで…

そんな、普通の私の生活には「イスラム教」のことなど、ノミのフンほどもないくらいものすごく遠いもので、イスラムについて考えたこともなかったし、宗教にハマるなんて、キモッ!くらいに思っていた。

旅をするようになって、イスラム教徒が暮らす地域に行けば、アザーン(礼拝を呼びかける放送)を「遠くにきたもんだな〜」と、しみじみ味わうようになったりはしたが、インド留学中に、イラン人の友人家族から、何度も「イスラム教徒になりなさい」と勧められても頑なに断っていた。

なにしろ豚肉料理が大好きだったし、そもそもお酒がすごく好きで、飲めない人生なんてあり得ない!と思っていた。

なのにイスラム教徒になってしまった。人生って不思議だ。

noteには、初心者ムスリマ(女性のイスラム教徒のことを"ムスリマ”という)である「わたし」の視点で気がついたことを書く記事もあるだろうが、世界にものすごくたくさんいるイスラム教徒分の一の話しであるので、これを読んで全てのイスラム教徒がこんなんなんだーって思うのは危険である。

イスラム教徒って、いやそもそも宗教自体が、なんか不気味とか、近付き難い、質問したいけど近くにイスラムの人がいないetc。

イスラム教徒も、当たり前だが普通の人。

悩み、もがきの中で生きている。

文を書くのが好きな私が、ほんの少しイスラムについて書くことで、人々のイスラムに対する誤解や偏見が少なくなったら、かなり嬉しい。

さて、私はイスラム教徒になったことで、洗脳されたかのように元の自分から遠くへ行ってしまったのだろうか?

うまく説明できないが、昔より、私は立つべきところに立っているような気がする。心は昔よりも満たされているようにも感じる。旅をして旅をして、幸せは家の窓のすぐそばにあったことに気付いたような状態なのかもしれない。

私はここにいる。







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