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Vol.36 思い出はどうしたって綺麗になりすぎる


2020年1月某日。
年始からドイツ・オランダへ出かけ、再びフランスへ帰ってきた私たち。

ちょうどその一月ほど前、ドイツ・アメリカの旅から帰ってきた時に得た、
「旅をして帰ってきてはじめて家が家と感じられる」という感覚が、
今回再び旅から帰ってきて、より一層強く感じられた。


しかし、一ヶ月前とは違うことがある。
それは、このフランスでの生活も慌ただしくも愛おしい日々も、いつか終わる時がくることを同時に感じていたということ。


寒い寒いフランスの朝。
ゆっくりと朝の日が差してくる頃、遠くに望むバスティーユの山にはよく霧が立ち込めていた。

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見慣れた窓の外の景色。
いつもの風景に、時折、まるで絵画の世界に取り込まれるような感覚を覚えることがある。そして、この美しい景色とも、そんなに遠くない将来さようならをするのだなというノスタルジーが同時にやってくる。

「ママ?」

「お腹すいた・・」

そうこうしていると、お腹を空かせた娘が起きてきて、過去と現実が一緒くたになったまどろみの時間が急に境界を持ち始める。

小さなテーブルにバゲッドとバターとジャムを並べる。
ブドウはないのか、と娘にせがまれて、そうだそうだ昨日一緒に買ったブドウがあったと思い出してフルーツバスケットからブドウを出す。

いつもと変わらない、朝の光景。

私はエスプレッソマシンでコーヒーを入れて娘の前によいしょと座る。

いつもと変わらない。
ここへ来た時からこんな感じの朝だった。

だけど、この毎日毎日変わらない光景にも、唐突にデジャブ感がやってくることがある。そんな時は「あぁ、これもいつかノスタルジーの中へ消えていくんだな」と思って切なくなって、見慣れた目の前の一瞬がとてつもなく愛おしくなるのだ。

ふと思い出したかのように窓の外に目を向けると、先程の幻想的な霧はもうどこかへ行ってしまっている。


オランダから帰ってきて、フランスの街をもっと歩こう、と思った。
娘の体力発散のため、とか今日のご飯の食材を買うため、とかでなく。

できるだけ、体が感じるままに。
できるだけ、目的もなく歩こう。と思った。

そうやって、ここでの体験を丸ごと体に刻みたくて、気づくといつもひたすら動画を回していた。

そこには〝音〟があった。
音ってとても生々しい。

今まで写真での「美しい」情景はたくさんたくさんスマホやカメラの中に収められているけれど、それはどこか美しい部分だけをトリミングしている感じもあった。

写真は少しかじったことがあったけれど、動画はまるで初心者。
だから、私の撮る動画はほんとうに「おかあさんがホームビデオを回してます」感が全開。だけど、それがかえって生々しくて、「私の家庭で起こったこと」に関してはどんなドキュメンタリーよりもここでのリアルを再現している。

いつもいく公園の凍った葉の上をサクサク歩く音。
その横を大きな音で通過していくデモ行進の音。
ボールが泥で汚れたと泣く娘の声。
トラムの音。
公園から帰りたくないと癇癪を起こす娘の怒号。
自宅の古いエントランスの扉が開くギーっという音。
夕方になって疲れてくると体が痒いと怒り狂う娘の声。
フランスで買ったお気に入りのブーツでコツコツと階段を登る音。
娘が小さな色鉛筆を削る音。

子供が大人になったとき、知りたいって思うのってこっちの世界なのかなと思った。脚色されない、そのままのリアル。

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思い出はどうしても美しすぎる。
過去は風化され思い出になる頃には枝葉が落とされ、なぜか美しさが残ってしまう。だけど、そうじゃない、ザラザラとした感触やノイズを上手に残しておきたいとあの頃の私は思っていたのかもしれないなぁ。



時はたち、今は2021年4月。
来週は、娘の幼稚園入園式。

入園式かぁ。

どこへいくにも一緒で、何をするにも引っ付かれ、この永遠にも感じられた毎日は、もうすぐに過去のものとなってしまう。

そう思うと、ついついどこへいくにもカメラを持って出かけてしまう。
そして、ついつい美しく体験を収めてしまう私に、一年前の私が肩を叩く。

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「ざらざらした思い出だって楽しいんじゃない?」と。




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