見出し画像

秋分 - しゅうぶん - 年度の中じまい。春にまいた種の経過を振り返ろう

二十四節気通信。

2020年9月22日〜10月7日までは秋分です。

吹く風から冷たさを感じ、空には鱗雲が並び、いよいよ秋らしくなってまいりました。私は毎年、この時期になると切ない気持ちになるのですが、それはきっと、春から育ててきた熱が去ってゆくからなのでしょう。

自分を支えてくれるものに対して感謝するお彼岸

画像1

秋分には春分と同様に、彼岸の期間があります。
仏教では、西には生死の海を渡って到達する悟りの世界「彼岸」があり、東には迷いや煩悩に満ちた世界「此岸」があると考えられています。
太陽が真東から登って真西に沈み昼と夜の長さが一緒になる春分と秋分は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなると考えられ、先祖供養をするようになったのです。

ただ、お彼岸の時期にお墓参りをするというのは、インドなど他の仏教国にはない、日本ならではの行事です。古くから先祖崇拝の文化があった日本では仏教が伝わる前からこの時期先祖のことを思い、敬う風習があったようです。

春にまいた種が秋には収穫の時を迎えます。

春分と秋分のお彼岸は、自然の恵みや連綿と命を繋いできた先祖という自分を支えてくれるものに対して感謝を捧げる時なのです。

春にまいた種の経過を振り返る

画像2

長い夜が明け、だんだんと昼が長くなってくる春分は種をまく時。
長い昼が終わり、だんだんと夜が長くなってくる秋分は収穫の時。

この二つのフェーズはお互いに補完し合う関係です。

収穫の時である秋分には、春分にまいた種が、成長の夏を経て今どのような状態になっているのか振り返ってみましょう。

まいた種によっては夏にスクスク成長をし、実をつけ、花を咲かせ、今まさに収穫の時を迎えているものもあるでしょう。しかし、もし今自分の中にそんなものがなくても、何も収穫するものがないなどと心配する必要はありません。

例えば、春まきの植物の中には、まいたその年のうちに発芽し、花が咲き、種をつけ、枯れるものもあれば、種をまいた最初の一年は根を広げたり茎や葉を伸ばすところまでにとどめて静かに過ごし、次の年の春や夏に花を咲かせるものもあります。

前者を一年草、後者を二年草、と言います。

一年草はワンシーズン限りで、花を咲かせて枯れてしまったら次のシーズンにはもう花を咲かせることはありません。しかし、残された種からまた新しい株を作り花を咲かせようとします。

二年草はまいたその年は花をつけることも種をつくることもないけれど、寒い冬を越します。地中でじっくりじっくり育ち、冬に成長するものにしか味わえないプロセスを歩みます。そして、また春が来て、ついに花を咲かせる時を待っているのです。

また、宿年草や多年草と呼ばれるように、豪華ではないけれど、毎年小さな花をつけ株を太らせながら成長する植物もあります。

それぞれ、その植物らしさを現れており、どれが良い、ということはないのです。

今年の春はコロナウィルスの影響で、生活様式に大幅な変更を要したこと、意識的に新しく取り組み始めたこと、があったと思います。年度の折り返し地点である秋分には、それがどのような経過をたどっていて、今どのような形になっているのかをぜひ振り返ってみましょう。

私が春分に植えた種のその後

画像3

春分の頃、私はフランスからちょうど日本へ帰国したばかりで、StayHome真っ只中でした。お年寄りが多いのどかな里山に暮らしていたので、帰国後の全身疲労やストレスと戦い荷ほどきをしながら、近隣の人々を不安にさせないように、私たち家族が孤立しないように、とあれこれ気を揉んでいた頃でした。

でも、私が思う以上に、周りの人たちは私たち家族のことを心配しながらも大事に思ってくださっていて、毎日毎日、誰かしら家に来てお届け物をしてくれました。

画像4

画像5

画像6

食材を買ってきてくださるご近所のお友達に、灯油を入れてきてくれた方。

当時、マスクとトイレットペーパーなどが品薄状態だったのですが、「多めに買ったから」とみんながそれぞれちょっとずつ分けに来てくれたりもしました。

お惣菜を作って届けてくれる友人もいました。

美味しいコーヒー豆を焙煎して持ってきてくれるご近所さんもいました。

たくさんあっても困らないでしょう、とお米をたくさん持ってきてくれる人もいました。


たぶん、大人になってからの人生史上初の人からひたすら与えられ続けられる日々だったと思います。

受け取ることに鈍感な私は、このように毎日が満たされていくことになんだかムズムズしてきて、何か新しいことをやってみようと朝早く起きる習慣をつくったりしていました。
朝、誰もいない時間帯に近隣をゆっくりゆっくり散歩をして、いつもだったら寝ているだろう時間にこんなにも美しい自然の営みがあったのか!とひたすら感動した。どうして4年も住んでいてこんな綺麗な時間に気がつかなかったのだろう、と思った。

画像7

家に帰るとゴリゴリといただいたコーヒー豆を自分のためにひいて、丁寧に丁寧にドリップして、お客さん用のコーヒーカップへ綺麗に注いでみた。

画像8

そうやって過ごす中で、ふと「もう外側の不安定な社会に制約された時間で過ごしたくない。自然のつくる時間の中で生きていきたい」と思い立って始めたのが、この二十四節気通信。今ではストッパーが壊れて頑張りすぎてしまう私のよきペースメーカーになってくれている。


それから、迷いに迷った末、もう少し都会に引っ越すことに決めて、「もうたくさんの荷物と一緒に動く生活は嫌だ。すっきりコンパクトに、大事なものだけ持って生きていきたい」と一念発起して始めた断捨離。その中で生まれたのが「すてっこし:捨てながら引っ越す」という我が家の生活理念。


ひたすら捨てて捨てて捨て続けて、すっきりとした生活の中で「フランスの生活を振り返ってみよう」と始めたのがフランス滞在記。


娘の「ママあれ作って!あれ描いてよ!」に付き合うのことにほとほと疲れて、それなら自分が好きなものを描いて作ってみて、彼女を巻き込んだらいいんじゃない?と始めた一日一描。もうすぐいよいよゴールの時を迎える。


どれもバラバラに始まったことのように思えていたけれど、すべては私が子育て中に培ったこと、を書き続け、描き続けることで自分を労っているのだと思う。
私が一番自分にかけてあげにくいけれどかけてあげたい言葉「よく頑張ったよね」。この一言を言ってあげるために生み出された数々なのだと思う。


自然と一緒に生きること。

5秒に一回イレギュラーが発生する生活の中で、捨てるものはスパッと捨てて諦めること。

自分一人だったら絶対にやらないようなことにチャレンジしてみること。

全く興味のないことに興味を持って関わり続けること。

待つこと。

誰になんの評価をされなくても粛々と頑張り続けること。


子育て生活で培ったエッセンスがそれぞれの場面で姿形を変え、散りばめられている。


マイペースに自分の世界を深めてきた娘は、相変わらずの自由人だけれど、最近、お友達に興味が出始めてきたようです。お友達に駆け寄って行って、仲良く手を繋いで歩く彼女の後ろ姿を見ると、「あぁ、もう大丈夫だ。私もちゃんと自分のことをしてちょっとずつ子離れしないとなぁ」と思ったのだった。

でもやっぱりちょっと切ないのは秋のお日様のせいなのだろうか。

やっと子供との生活に慣れてきた頃に、離れる時間が増えていくだなんて。

でも、きっと育てるってそういうことなんだろうなぁ。












生きていく場、暮らしの場、すべてがアトリエになりますように。いただいたサポートはアトリエ運営費として大事に活用させていただきます!