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『廃市』と日本の夏

大林宣彦観たことないので、教養として観ておこうと思い立った。近所のTSUTAYAに行ったら『転校生』がリメイク版しか置いていない。
最初からリメイク版ってあんまり良い方法じゃない気がして(市川崑の『犬神家の一族』もリメイクから観たが、あんま印象良くなかった)、散々悩んで、近くにあった『廃市』を手に取った。

1983年作品。福永武彦原作、らしい。

鑑賞後、本当に良い映画に出逢えたと感じた。

よくよく考えれば、大傑作というわけじゃない。なんならちょっとB級感のある映画で、どうしてここまで僕の心を揺さぶったのか、鑑賞中もわからなかった。

おそらくこの記事を見て『廃市』を観ようとはしないだろうから、あらすじを書いておく。

大学生の男が卒論を書くため、友人の紹介で運河に囲まれた田舎町の旧家に滞在する。映画はこの男の回想という形で進む。この旧家の娘の安子が主人公の世話をする。家の大黒柱は、安子の義兄の直之であるが、妻の郁子(安子の姉)がありながら、家を出て他の女と住んでいる。主人公は旧家の法事に参加したり、町の夏祭りに安子と出向いたりするうちに、夏休みは過ぎていく。
そしてある日、直之が女と睡眠薬で心中する。

……といった、まあ筋書きはそこまで複雑ではない。つまりドラマのカタルシスで魅せる映画ではない。

冒頭の主人公の周りだけカラー化し街をモノクロにする演出は、街の時間が止まっていること(記憶の裡に沈んでいること、もともと時間から閉ざされた街であること)を端的に示していた。

原作はおろか福永武彦の作品も読んだことないものの、"滅び"という日本文学の本質に迫る作品。
衰退する名家、寂れゆく地方都市、くたびれた直之は、徐々に消えてゆくもののように見えて、直之の死と火事という突然の終局によって美しく滅ぶ。つまり時間が消失している。

主人公はどこまでも傍観者であり旅人である(なんとなくナレーションにつげ義春の諸作品を思い浮かべた)。その主人公は地方都市の夏の風景のなかに放り込まれる。奇妙なことに主人公の影はとても薄く、この運河という擬似的な自然物に囲まれた街こそが主題であり、主人公は背景に徹している。

加えて、主人公はこの一連の物語(直之の死)に介入することはできない。この街に入った瞬間に時計は止まり主人公の過去も未来も剥奪されているのだから。

ここから『廃市』そのものの議論は横に置き、この作品から"夏"について書いていきたいと思う。
ここで二つの映像作品を紹介する。どちらも『廃市』のように男性主人公の目線から描かれており、ある結末に向かって物語が進む。しかし主人公はその運命に介入することは出来ないという構成をもつ作品だ。


岩井俊二の『打ち上げ花火、上から見るか、横から見るか?』('93)は、ある種アニメ的な幻想に満ちた青春で作品を塗り固める一方、昭和の(もちろん作品は90年代だが)寂寥感ある夏を(意図しないものであれ)描き出さずにはいられなかった。花火も夏の出店も"エモい"とは程遠い、ある種の怪しさを纏った昭和の夏である。一方で『打ち上げ花火〜』に通底する、諦念そのものを噛み締め、享受する感覚。過去になった青春に想いを馳せる。夜のプールで浮かぶ二人の姿への視線は極めて感傷的だ。

この作品は『もしも〜if〜』という連作ドラマの一つとして制作されたものだ。このドラマシリーズでは主人公の選択によって未来が分岐することが一応ルールになっている。
しかしながら、ヒロインが転校してしまうという未来は分岐したとしても、その事実に主人公は介入することができない。


時が経ち、夏を描く作品では、アニメ的な青春が前面に出るようになる。
特に2005年に放送された伝説のアニメ『Air』は夏をテーマにした作品である。
アダルトゲームが原作ということもあり、主人公の擬似分岐の形を取って様々なヒロインとのifが描かれる。特に物語の後半、観鈴の運命に対して主人公は介入が出来なくなる。
旅人、死にゆく街、少女、夏。こうした構造に『Air』と『廃市』の類似性がある……というのは強引だろうか。
『Air』を語る際にも諦念、がキーワードして用いられるがそれは『廃市』とは大きく異なる。
なぜなら前者の諦念は受け手、つまり視聴者が感じるもので、後者は登場人物が感じる(結果として受け手に波及しうる)ものだからだ。


ところでアニメ的な夏を把握する上で、近年話題の"感傷マゾ"が取っ付きやすいかもしれない。

ここで言及される創作物の"青春"は00年代以降、つまり『Air』的なものと解釈するのが適切だろう。彼らによれば、我々は存在しない創作物の"青春"を内在化し、それを現実に適用しようとして必然的に挫折する。結果として届かない"青春"を追い求め続け感傷に浸り、"感傷マゾ"もしくは"青春ヘラ"に陥る。

だとすれば、この"感傷マゾ"の前提となる"青春"もとい"夏"はいつ形成されたものなのだろうか。それを僕は明らかにするには力量が足りないが、どう考えても'83年の映画『廃市』の夏とこの"夏"には断絶がある。

視覚イメージに依拠した言葉が、青春とセンチメンタリズムが支配的になった"夏"は、この映画には見受けられない。

水の音、泥の匂い、川の風といった五感を誘発する映像表現、それに喚起される諦念とやるせなさ。匂いや風が夏から取り払われたのはいつだろう。

80年代の夏は既に失われた、なんて若干19歳の僕がなぜ感じるのだろう。『Air』の夏をもステレオタイプとして僕らは受容してきたのに。
集合的無意識として、もしくは伝聞として知った"古き良き夏"の記憶を、"青春"と同じく内在化させていたというのか?
いや違う。僕は体験していたはずだ。この街にいて、風を、匂いを、感じていたはずなのだ。


創作物に依拠しない本物の、皮膚感覚の夏を僕らは体験しているはずなのだ。『廃市』がこれほどまでに懐かしく愛おしいのは、身体感覚の夏を記憶しているからだ。
『廃市』の夏が僕に喪失感と諦念を覚えさせたのは、"感傷マゾ"的な想像力のせいではない。
アニメ的な"夏"は最初から作り出された虚構だから。そのアニメの虚構を我々は信じ込まされている。

しかしながら、『廃市』は"夏"が実際に存在ことを再確認させ、僕らが日本の夏を永遠に失ってしまったことを残酷にも明らかにしてしまうのだ。
創作物は現実を歪める。創作物にある"夏"しか、僕たちは"日本の夏“として知覚できないからだ。

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