〜第3章〜 The Lambの制作 (2)Glaspant Manorでのレコーディング
Headly Grangeでのリハーサルを終えたバンドメンバーは、そのままロンドンに戻ることなく、次にウェールズの地にある、Glaspant Manor(*1)と呼ばれる一軒家に移動しました。恐らく7月中旬のことだと思われます。また、ロンドンからは、アイランドスタジオが所有するモバイルスタジオ(トレーラーの中に録音機材一式と発電機を備えたもの)がここに到着し、今度はエンジニア(*2)も交えて、彼らは再び合宿生活を送りながらレコーディングを行うわけです。このようなスタイルのレコーディングは、イギリスのミュージシャンの間では当時よく行われていたようで、ローリングストーンズなどは、自らの専用モバイルスタジオを所有していたそうです。
何故ウェールズだったのか?
この Glaspant は、ロンドン中心部から370Kmほども離れた地です。東京からの距離でいうと、仙台よりちょっと先くらいのロケーションなのです。現在 Google Map によると、車でロンドンへは5時間弱ほどかかると表示されますが、74年当時の道路事情では、約8時間かかったとピーター・ガブリエルが証言しています。ロンドンから80km程度だった Headly Grange に比べると、ものすごく遠い場所なのです。彼らは何故こんなにも遠く離れた地をレコーディング場所に選んだのでしょうか?
この件については、トニー・バンクスが「他がどこも空いていなかった」というコメントをしていますが、フィルは、ピーター、トニー、マイクのチャーターハウス出身の3人が「カントリーサイドを散歩する趣味があった」とよく言っていた(つけ加えて「オレは都会育ちだからそういう趣味はない」というのが常だった)そうです。フィルの言い分は多分ジョークでしょうが、本当にここしか無かったのが、その理由なのでしょうか?
これはわたしの妄想かもしれませんが、このロケーションの決定には、作業が遅れに遅れていたピーター・ガブリエルを隔離しようという意図がどこかにあったような気がするのです。ピーター・ガブリエルという人は、とにかく創作となると、粘りに粘ってなかなか物事を決めないというのを、彼らは嫌になるほどよく知っていたはずです。これはもう一生直らないガブリエルの性格のようで、後に大ヒットしたソロアルバム So のレコーディングの際にも、いつまで経っても終わらないので、プロデューサーのダニエル・ラノワにボーカルブースに閉じ込められて外から鍵をかけられて、「歌詞決めて歌うまでここから出さない」なんてことをされていたわけなのです。こういうピーターの仕事ぶりに以前から悩まされていた彼らは、Headly Grangeでの作業の結果、「このままだとツアーに間に合わない」という危機感をかなり持っていたはずです。ピーターひとりがストーリーと歌詞を書くことを許した以上、彼が仕事してくれないと決してアルバムは完成しないわけですから。そこで何とかピーターを遠隔地に隔離してカンヅメ状態で作業させようと誰かが考えて、それにマネージャーのトニー・スミスが同調したような気がしてならないのですが…。まあこれは個人の感想です(^^)
1974年7月26日:長女の誕生
ところが、Glaspantに移動した直後の7月26日、ピーター・ガブリエルの妻ジルが出産します。この出産にピーターは立ち会ったようで、Glaspant から車で8時間かけてロンドンの病院に向かったそうです。ところが、これがピーターのトラウマとなる、大変な出産だったのです。
最初は、ジルが妊娠中に受けた注射の際に汚染された注射器から深刻な感染症にかかり、そのために自然分娩ではなく人工的に分娩を誘発するという処置がとられたわけです。ところが、その出産の最中にへその緒が首に巻き付いてしまい、分娩された娘(アンナ=マリー)(*2)の肺には体液が入り込み、仮死状態での出産となったのです。
分娩直後は医師も娘の生存を危ぶんだそうですが、彼女は奇跡的に生き延びることができたたわけです。こうして、ピーター・ガブリエルは、片道8時間かかるロンドンの病院と Glaspant を、「1日おきに」行ったり来たりすることになるわけです。
本人も言うように、フリードキンの件で自らが引き起こした脱隊騒動の後にバンドに復帰したところで、今度は子どものことで、バンドを留守にせざるを得ない状況となってしまったわけです。ところが、「とにかく期日までにアルバムを完成させないと」と焦っていたバンドの他メンバーは、ピーターの事情を斟酌できなかったわけです。
バンドメンバーにとってみれば、ストーリーと歌詞を全部ピーターに任せる事になったにもかかわらず、当の本人が全ての遅延要因となっていたわけで、これに他のメンバーが激怒してしまったわけです。
こうして、メンバー間の緊張は極限状態と言っても良いような状態となったわけです。このときは本当に険悪な状況だったらしく、後にメンバーそれぞれは、言い訳とも謝罪ともとれるコメントをしているわけです。
こうして、後のピーター・ガブリエルのジェネシス正式脱退のタイマーは、このとき動き出したと見て間違いないのです。
Glaspantでの仕事
しかし、このような状況になっても空中分解せずに、各自が必死に仕事をこなすのも、このジェネシスというバンドの希有なところだと思うのです。
このように、彼らは8月2日にレコーディングを開始し、8月19日までの17日間でバックトラックのレコーディングを終えるのです。
この間、ピーターは7月26日にロンドンの病院で娘が生まれた後、1日おきにロンドンとGlaspantを往復したわけですが、娘が生死をさまよったのは1週間程だそうですから、ちょうど8月2日頃からは少し精神的にも楽になったのではないかと思います。こうして、ピーターも一部では参加しながらレコーディングが行われたのでしょう。
このように、ここで実験的なボーカルのレコーディングが行われていたような記述もあるのですが、Glaspant で録音されたボーカルトラックはどの曲だというのはほとんど特定されていないと思います。実際ボーカルトラックは、そのほとんどが歌詞が間に合わず、この後のロンドンのアイランドスタジオで録音されているからです。結局、まだこの段階ではストーリーも歌詞も全然フィクスしておらず、ここで録音されたボーカルトラックが多少あったとしても、後で使えなくてボツになって、再テイクになったのだと思います。
また、この Glaspant では、Headly Grange でジャケットのアートワークを依頼したヒプノシスのメンバーがここにやってきて、ラフデザインを見せて、その方向性を決めるミーティングが行われていたのは事実のようです。このとき提示された、アートワークの原案をピーター・ガブリエルが絶賛したことで、ここからヒプノシスのジャケット・アートワークの制作作業が本格的にスタートしたと思われます。ただ、こうしてアートワークを依頼されたヒプノシスも、決定稿ではないラフなストーリーを元にビジュアルを作らなければいけなかったわけで、ビジュアルの中に、ストーリーとどういう関係があるのか不明なものがけっこうあるのも、実はピーターのストーリーが最後の最後まで細部が決定していなかったことによるものだと思います。
こうして結局、Glaspant で過ごしたおよそ3週間の間にも、ピーターのストーリーと歌詞の仕事は全く終わらず、バックトラックのレコーディングだけが終了し、メンバー全員はロンドンに戻り、アイランドスタジオでの作業に移るわけです。
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【注釈】
*1:一部資料にメンバーの「牛小屋をレコーディングスタジオに改装した」という発言があり、ジェネシスがどこかのマナーハウスを自分たちで改造したような印象を受けますが、事実ではありません。この場所は当時 Angela Lyle というイギリスのロックミュージシャン向けの衣装デザイナーがオーナーだった18世紀のマナーハウスで、すでにレコーディングスタジオとして経営されていた場所で、牛小屋を改造したのはオーナーの意向です。食堂も付属する宿泊設備(かなり粗末な宿泊場所だったとメンバーは証言してますが)を備えており、ここで提供されたオーガニック食にピーター・ガブリエルは大変満足したとか。また、このスタジオではブラック・サバスもレコーディングしたそうですが、クイーンのフレディー・マーキュリーは下見に来ただけで「プールもないスパルタンな場所は嫌だ」と言って却下したそうです。ちなみに、この施設は2017年にオーナーが変わりましたが、今も宿泊施設として運営され、世界中からジェネシスファンが訪れているそうです。
*2:このときは、Foxtrotのエンジニア、Selling Englandのプロデューサーでもあった、ジョン・バーンズ(John Burns)が再びバンドの共同プロデューサーとして、またエンジニアとしてデイブ・ハッチンズ(Dave Hutchins)がGlaspant でのレコーディングに参加しています。
*3:ピーターの長女であるアンナ=マリー・ガブリエルは、後に映像作家となり、父親のMV(Father Son)やライブビデオ(Taking The Pulse: Live in Verona)のディレクションを行っています。
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