見出し画像

『報道ウオッチ 3.11—日本の報道はなぜ世界で通用しないのか?


o

緊急リリース版1
 第一部 東日本大震災
     災害列島と化した日本という祖国

     





阪神淡路の教訓は生かされたのか
 

 小刻みにだが、突き上げるような振動があった。書斎のカーテンが揺れている。地震だ。 
 思わず立ち上がってテレビをつける。地震速報が流れた。東北地方で震度7以上の地震のテロップに続き、東京のスタジオが激しく揺れて、書棚が転倒する画面が流れた。
 大地震だ。阪神大震災を取材したことのある私は、震源地から遠く離れた京都の揺れの大きさから、震源地の破壊の甚大な被害を想像していた。
 やがて津波警報が出る。津波の予想数字は1、2メートル程度と小さく、ピンと来なかった。これまでの経験からいっても津波警報が出るが、日本列島が実際に甚大な被害を出した大津波に襲われた経験は、この数十年間はなかった。
 しかし私が小学生の地理の時間には、三陸海岸はリアス式で、津波うが増幅して大きくなり、しばしば大津波の被害が出てきた歴史を習ったことがある。東北地方は津波に襲われやすいという知識はあった。
その津波が押し寄せる映像をNHKの取材ヘリの上空からライブで見たとき、驚愕のあまり言葉が出なかった。
 仙台の名取川に津波のさざ波が立って川をさかのぼっている。川の水かさがどんどん増してあふれそうになるころ、土手わきから流れ込む泥を含んだ黒い海水が、あたりの田園地帯一面に広がった。
 入念に整地された川沿いの農地が流され、幾何学の図面を引いたように整然と並んでいたビニールハウスが、一瞬にして泥水の中へ消えた。
 泥水はインベーダーのような不気味な動きで前へ前へと、一面の風景を呑み込みながら進んでゆく。波頭の向こうに山手の高台を走る道路が見えた。あの段差のある高台の道の前で津波は止まるだろう、と思った。
 その道は避難を急ぐ人々が走っており、車が走っている。思わずアツと叫び声あげる間もなく、その道を泥の海はなんなく乗り超えて前へと流れて行った。人も道も車も消えた。
 道の片隅で停止しハザードランプを点滅させていた大型のトラックも消えた。
 
 
 この日の午前中、軍事アナリストの小川和久さんに立命館大学でお願いしているジャーナリスト塾講座の日程の件で電話した。小川さんはこれから出張に出かける、と話していた。
 どこへ行くとは聞いていなかったので、もしやと思って携帯に電話した。小川さんはすぐに電話に出てきた。
 いま九州にいる。自衛隊学校の卒業式のスピーチのために来たということだった。今見た津波のライブ映像について話すと、まだテレビで詳細を見ていなかった小川さんも驚愕していた。
 人が大勢流されている。これを救助できるのは自衛隊しかない。すぐにヘリなどで海浜の捜索を始めるように自衛隊に進言してほしい、と私はいった。
 阪神大震災の時、村山内閣の指揮系統の機能不全から自衛隊の出動が遅れたことで、助かるべき命が失われた苦い経験がある。私はそのことをいった。
菅政権のリーダーシップの脆弱さは村山政権の失敗を繰り返す恐れがある。いずれの災害も野党内閣の時に起こっているのが不思議だった。
 災害の危機管理と指揮が最大に求められる大惨事が起こったとき、日本は二度とも政権交代の節目に当たった。リスク管理のノウハウが脆弱になった時期を、まるで天変地異までもが日本を狙っているかのようだと思った。
 
 この地震は阪神大震災を超える大規模な被害を出すと思ったが、その通りになった。結局、約2万人を数える死者・行方不明者が出ている。
 
 悲劇がまた生み出されてしまった。洪水が引いた川辺に戻り、流された家の跡にしゃがみこんで、子供の名を呼び続ける若い母親の姿が、記憶に焼き付いて離れない。
 
 被災地には食糧、水が届かない。電話も携帯も使えない。電気がなく暖もとれない。薬もない。テレビも新聞も届かない。家族、友人の安否情報すらわからない。
 
 自衛隊も米軍も独自の指揮系統で動いていたこともあり、日本政府の危機管理初動システムはほとんど作動しなかったとしかいいようがない。
 マスコミ報道も被災者の困窮を救うことはなかった。例えば、NHKはEテレで行方不明や安否情報を流してはいたが、電話も通じない現地からどうしてリアルタイムの安否情報をNHKまで送ることができるのか。せっかくの安否情報が、双方向通信が出来ないアナログ手法でしか扱えないもどかしさを感じた。
 民放テレビが海浜の上空取材のヘリから孤立した病院の映像を流したとき、屋上に避難した人々が手書きの横断幕を掲げて水、食糧、医薬品の救援を求めて、手を振っていた。ヘリはぎりぎりまで近付き、顔も鮮明に見える距離だったが、何らの救援のメッセージを掲げることもなく、すぐに現地から飛び去った。
 絵だけ本社に届ければ報道ヘリの役割は終わる。その後、この病院がどうなったか、救援が行われ、取り残された被災者たちは救出されたのか、フォローする続報はなかった。
 
 これは阪神淡路大震災時、十分に味わった苦い体験だった。壊れた建物の下に埋まったまま火災に会い、急げば助かる人々を救出できず、見殺した危機管理システムの脆弱さ、これは16年後にも変わることはなかった。
 阪神淡路のとき、西宮に住んでいた私の叔母は全壊した自宅の下に埋もれ、数時間後に運よく助け出されたが、救助を手伝ってくれた人は近隣や通りすがりの人たちで、警察や消防や役所の人ではなかった。
 
 私は阪神淡路大震災直後の現場を取材したが、電車が復旧した西宮北口駅構内には、安否確認の夥しい張り紙伝言板が所狭しと貼ってあった。まだ電車が止まっていた西宮から芦屋をへて神戸方面へ阪急の線路伝いに歩いていると、リュックを背負って梅田方面へ歩いて避難する人々の群れに出会った。話をする人はおらず、人々は黙々と歩いていた。ザックザックという足音が聞こえるだけで、あたりは静寂に包まれたいた。風向明媚だった阪急沿線の芦屋の高級住宅地はほぼ全滅に近く、文人谷崎潤一郎が住んだ瀟洒な屋敷は跡形もなく壊れていた。
 家族や友人知人の安否情報に関する限り、震災当初は、電車駅の張り紙伝言板しか安否情報を伝えたメディアは存在しなかったのだ。1995年1月の阪神淡路大震災時には、携帯電話は普及しておらず、インターネットやSNSも黎明期で、通信ツールとして誰もが使うまでには至っていなかった。
 神戸は国際都市だから、外国人の被災者数も多かった。伝言板には英語はもちろん、中国語、韓国語、インド語、ベトナム語、アラビア語など様々な言葉が並んでいた。
 

阪神淡路よりさらに劣化したマスメディア


 阪神淡路大震災の時、私は「マスメディアも敗北した」という論考を『諸君!』(文藝春秋社)95年4月号に書いた。全国の新聞各社、テレビ各局がの記者を大量動員、被災地の宿泊、水、食料リソースの不足を来し、各社が飛ばしたヘリの騒音に被災者は困惑したのだ。マスコミ取材の人海作戦は被災地の迷惑という批判の声が殺到した。
 
 阪神淡路大震災時と東日本の大きな違いは、自衛隊の出動が早かったこと、米国の太平洋艦隊がいち早く来日し、オバマ政権が「トモダチ作戦」を展開して被災地救援に乗り出したことが大きかった。
 しかし政権交代したばかりの菅内閣と日本政府の対応は緩慢で、地元の役所の多くも被災して実務を果たせなくなっており、救援どころか、被害の実態すらつかめない有様だった。
 自らも被災したにもかかわらず、個人として救援に尽力した消防隊員などの美談は伝えられたものの、官民の組織的な救援活動が立ち上がるまでに驚くほどの時間が経過した。
 そうした中で被災者たちはパニックを起こすことなく、我慢し、黙々と耐えている姿に世界の共感と称賛が伝えられていた。
 また菅内閣の怠慢という以上に、第二部で書いた「福島原発事故」が同時発生したという「未曽有の不幸」が重なった為でもある。その意味で原発事故の付随は、震災復興への足場を破壊してしまっていたといえる。
 後に、福島第一原発事故は、炉心メルトダウンという世界最大級の原発事故と判明し、しかも東電と政府が情報を隠して放射線被害を拡大させていことが世界中へ拡散され、世界の日本評価と信頼性に大きなダメージを与えた。原発過酷事故に脅威を感じた海外の原子力専門家たちが緊急訪日して、福島の放射線被害の現状を視察している。あのとき、フランスの大統領補佐官は、日本が自力で原発事故の収束が出来ないなら、フクシマを国際管理下に置け、とアメリカのネット新聞で主張していた。サルコジ大統領も日本視察に来日している。
 日本人はなぜもっと自己主張して、政府と東電の情報隠ぺいを止めさせることができなかったのか。政府や東電の記者会見には出ることなく、現場に深く潜入取材した海外のベテラン記者たちは、日本の支配組織の情報隠蔽体質を熟知しており、記者会見に出ても書けるなニュースはなく、時間の無駄を考えていたのだ。
 
 それでも、政府と地元自治体、警察、消防の奮闘と、全国から集結した自衛隊が10万人規模の作戦を展開し、米国太平洋艦隊が3万人兵士のトモダチ作戦が加わった支援が行われたことは、道路網が寸断された被災地への物資輸送の大きな力になったのは確かだ。
 東北地方から関東圏に至るまで広範に広がった被災の全貌を掴むためには自衛隊と米軍の陸海からの情報収集活動は不可欠だった。
 
 国民は政府が全く頼りないという感覚を持ったかもしれないが、これに反して、従来以上に自衛隊と駐留米軍への近親感を持ったことは疑いない。
 ところが、トモダチ作戦のために原子力空母ロナルド・レーガンを被災地沿岸に展開させた米軍だが、福島原発事故の放射能汚染から逃れるために日本海側へとベースを移動させた。この時の同空母乗員が原発事故の放射線被曝により、後に白血病などを発病し約20人が死亡、被曝兵士たちが賠償訴訟が起こったのは、痛恨の出来事だった。
 
 しかし自衛隊は被災地救援のために約10万という膨大な兵力を割き、オバマ大統領が命名したという米軍の「トモダチ作戦」は、被災地を助けるボランティア的な意味合いが強く、災害救援の平和維持活動であったが、原発事故との戦いの側面で国際同盟の色彩を持ったのは、注目すべきことだった。
 
 マスコミ報道の中でもテレビは、被災地の惨状の映像を取り出して、繰り返しセンセーショナルに報道するしか能がないようにも見えたが、自衛隊や米軍の救援活動については取材が手薄で、国民はその実態をあまり知らないでいた。
 自衛隊と米軍の機動力と救出作戦でどれほどの人命が助かり、物資の救援に役立ったか、これまでにきちんとした検証はなされてはいない。こうした作業は本来は政府や公的機関が行うべきことだが、残念ながら、菅政権は大震災と津波による破壊と福島原発事故のダブルパンチに対して、打つ手なしのように見えていたのだ。
 
 自衛隊はよくやった、よく頑張ってくれたという称賛の声はよく聞こえてくる。しかし警察や消防などの「社会防衛の組織」が、迅速に自衛隊の肩代わりができる力量を持った仕組みを普段から用意しておく必要がある。瓦礫のなかに生き埋めになった人々を短時間で救出するスキルと人材、重機の用意が必要だ。   これは阪神大震災時にしきりに論議された課題だったが、年月を経るにつれ記憶が薄れ、体験が風化するなかで、忘却されていった。
 たった十数年前の教訓が生かされていないどころか、危機管理能力はむしろ劣化したように見えた。

 学生や若者のボランティア熱は高まってはいるものの、やる気はあっても受け入れ先がない、現場に出かけても足手まといになる、何をしていいかわからない、などの悩みを訴える学生が多かった。
 ともかく現地まで行ってみようと思い立ち、苦労して現場へ入ってみても、災害の規模が大きすぎて、瓦礫撤去の仕事以外にはすることがないのが現状だった。相馬市へボランティアに数回出かけてきた京都の大学4回生O君は、「やっと写真洗浄の仕事を見つけた」と嬉しそうに話していた。写真洗浄とは津波で流された家の残骸の中から出てきた泥に汚れた写真を洗い復元する仕事だ。写真洗浄の仕事にはある程度のスキルが必要とのことだった。
  救援の人手も物資も圧倒的に不足していたが、自分の特技やスキルなどの専門性を生かせるボランティア活動を、災害地できる仕組みが必要ではないのだろうか。数万人の被災者が出て、その日その日の命を守るために苦闘している。しかし政府や行政だけには頼れない。政府や行政が動くのを待っていたら、助かるべき命も助からなくなる場合がある。阪神淡路大震災ではそういう現実をいっぱい見てきた。
ボランティア活動の本義は天災被災地や戦争で住居をなくし、地域の生活エリアを失った人々を物心ともに救援することだ。
 
 ものを運んだり、食糧を配ったり、瓦礫を片付けるだけの単純作業ではない専門性のある仕事が被災地には不可欠だろう。
 簡易住宅やテントの敷設、簡易水道の設置、医療、介護、衛生管理などの供給ができる専門家がボランティア活動には必要だ。
 そういう専門のトレーニングを受けたことのあるボランティアが現地に入って活動すれば、疲労とストレスでいたずらに命を失ったり、生活圏を奪われて孤立し自殺するお年寄りも救われるに違いない。
 
   アメリカのFEMAやスイスなどで日常的なトレーニングを行っている「民間防衛」の考え方を、日本も取り入れる必要があるのではないか。
「民間防衛」の思想が広まることで、被災地や地域秩序が失われた地域社会の救援のスキルやシビリアン・コントロールや危機管理の民主主義が深まってゆくはずだ。
 
(以下は、「緊急リリース2」の投稿へ続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?