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『十七歳〜思春期』

 『十七歳』が怖かった。

娘と息子を持った私は、十七歳という多感な時期を、どう向き合って行こうかと、ずっと考えていた。

 どんな友だちとつきあい、どんなことに興味を持つのだろうか。母親である私と会話をしてくれるのだろうか。どうか、どうか、何事もなく、無事に通過してくれ、と願っていた。


 私自身はどうだったのだろう。

十七歳…ジュウナナサイ…

両親を不安にさせるようなことが、一瞬でもあっただろうか。自分なりに分析してみると、あの頃の私は、まだまだ幼かった。学校では、ピンクレディーや百恵ちゃんの歌や振り付けを真似て、はしゃぎ回っていた。顔には無数のニキビ、それでも「青春のシンボルマーク」と称して、何ら気にも留めず、陽気な毎日を送っていた。


 今の十七歳は大人びている。

容姿も身なりも整っている。少しでも、髪がハネたり、顔に吹き出物ができたり、服が似合わなかったりすると、「ヤバい」「ダサい」を連発して、念入りに修正する。

 母娘が、まるで姉妹や友だちかのように、ファッションや髪型、異性の話まで共有する。フレンドリーというのか、時代も人も、変わって行く。

 私は、父親から「昔は、男女七歳にして席を同じゅうせずの時代だった」と、聞かされて育った。母親は、男子も家庭科の授業を受けることに驚いていた。「男子、厨房に入らず」という言葉を知ったのも、その頃である。

 序列

家の中では、祖父母が一番、その次が両親、その次が子ども達、という位置関係、歳の順、、、

 序列があったのは、いつの頃までか。家長制度という話も、もう遠い昔の話。父親の尊厳、長男を重んじる男社会は何処へ行ったのか。

 父親が一番風呂に入り、時間をあけずに子ども達が続き、仕舞風呂は決まって母親だった。

今では、各々好きな時間に、ご自由に〜〜の風潮が見られ、結局は逆転して、父親の仕舞風呂も有りき!!となった。どこの家も、どこの社会も、『同等』『平等』という言葉で重みを失って行くようだ。


 そんな中、『十七歳』である。

大人びた『十七歳』は、大人との遣り取りに物怖じすることもなく、平等な社会の中で戦っている。

ただ、情報が多すぎて、自分の中で上手く消化できない。経験不足で、先の、先の、そのまた先を読む力が未完成である。

そして、自分の中の、自分で作り上げた「正義」を、時折、間違った形で貫いてしまう。

それが事件となり、犯罪となってしまうことが多々あり、そのニュースを耳にしたときの心の痛みが、未だに消えないでいる。

まだ子どもなのに…

十七歳の晴れやかな舞台に、どのような不満があったのだろうか。


 今年度から

大人と子どもの境界線が十八歳という微妙な年齢で区切られるようになるようだ。成人式、選挙権、、、。
十八歳は心身共に、そして社会的にも認められた『大人』ということらしい。それで言うと、『十七歳』は子どもとしての最後の一年となるわけだ。

 年金問題も絡んでくる。十八歳からの加入、ということになってくるのだろうか。


 生き辛い世の中だ。だけど、不満を漏らしても仕方がない。目の前には避けられない現実がある。『成人』を迎える日は、近道してやって来るのだ。


 私は高校生になったばかりの時、進路を決めることに戸惑った。

「えーっ!進路って?文系?理系?私の将来?自分のことではあるけど、自分で決めるの?先生は?アドバイスは?」

 子どもの頃、「大人になったら…」と話すこともあったが、それは単に夢物語。具体的なものではなかった。一枚の調査用紙を前に、呆然としたことをはっきりと覚えている。

 

 今の子どもたちは

小さいの時から、きちんと将来を考える時間を持って育っているのだろう。世の中の動きも、学校や家庭で話し合っているようで、よく把握している。頼もしい存在だ。

自ずと生き易い世の中に変えていく力を持っているのかも知れない。誰もが生き生きと暮らせたなら、犯罪など起こらない。若者とバトンタッチした先に、格差のない明るい未来が待っていることを信じたい。

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