『口は災いのもと』
昔から気になっていたことがある。
男だから、女だから、と差別しない世の中になった今、ふっと思い出してしまった。
「男は損やね、男というだけで、重い荷物を持ったり、力仕事をしたり、そんな用事ばかり言いつけられる」と思っていたことを。
姉に話すと、「男と女は、生まれた時から骨格が違うんよ」とバッサリ。そうか、子どもであっても、男というだけで、一人分の腕力を保持しているのか。
昔の子どもは、生まれつきの体質にプラスして、野山を駆け回ったり、高い所から飛び降りたり、川で泳いだり、、、日頃から、無謀な遊びの中で筋力を身に付けていったに違いない。
今は、公園という整った環境の中で、大人に見守られながら遊ぶ。走れば「危ない!」転べば「ヨシヨシ」と。
安全な遊びは、家の中でのテレビゲームか。時代の流れだ。悪いことではない。あとは、節度とルールを守りさえすれば、問題ない。
昔は、、、、
ワクワク、ドキドキ、ハラハラの経験は、家の外にあった。体を使って、知恵をしぼって、あらゆる遊びを楽しんだ。ドロンコになり、スリ傷を作り、喧嘩をして泣いたり、謝ったり…。一日の終わりは、楽しい記憶でいっぱい。そして、疲れ果てて、大の字で眠った。
今の子ども達は、どうだろう。男の子として生まれ持った骨格を、より強化すべく、活発な遊びと巡り会えただろうか。
しかし、これは人それぞれの思いであって、万人が望むことではない。
ジェンダーレスの時代だ。
考え方も服装も、ストレスになることは排除しながら、自分らしく生きて行く。それを最初に発信した人は素晴らしいと思う。 勇気のいることが多かっただろうし、皆んなに理解してもらうのも、時間を要したはずだ。
男か女かとか、ホントは大した問題ではなかった。黑か赤か、とか、ズボンかスカートか、とか、個人の好みでよかったんだ。
と、今だからこそ、大声で言えるものの、まだ、世の中が無知であった頃は、苦しんでいる人が多かったに違いない。
SDGsの項目の中にも、ジェンダー平等が掲げられている。世界中に不可欠な課題である。自分の中での違和感や周囲の視線に怯えることなく、皆んなが堂々と自分らしくを貫ける世の中になっていくことを望んでいる。
この度の不祥事。テレビでもネットでもザワツイていた。
某大学の講演会に招かれた、某有名飲食チェーンの、取締役の肩書を持つ人の口から、とんでもない発言があったという。
気持ちは分からなくもない。選んだ言葉が良くなかった。
女性を見下した表現だという意見もあるし、例えが下品だという意見もある。
社内上層部の人たちも、この言葉を初めて聞いたのだろうか。社内での会議の冒頭など、叱咤激励の折に使わなかったのだろうか。時代に乗り遅れないようにと、知恵を絞り、シャレた新語を生み出して、笑いとインパクトを取ろうとしただけなのではないだろうか。素直に「若い層をターゲットに、うちの味のトリコになってもらいたい」と言えば、皆んなが理解できただろうに、と思う。そういうことだろう、と勝手に思う。
言葉というものは、人と人とを繋ぐ最大のコミュニケーション手段。一つ、使い方を間違えると、ドン底に突き落とされてしまう。そういう時代を生きているのだ。
メディアに晒されると、どんなことでも引っかかる。思いを言葉に変換する時は、万人の気持ちを汲まなければならない。小さい頃から努力して、努力して、努力して築き上げた地位も名声も、悲しいかな、たちまち失うことになるのだ。
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