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「呼びかけ」

 「うさぎの島」
ミュラー(文)・シュタイナー(絵)・大島かおり(訳)ほるぷ出版

 居酒屋の水槽の中を、アジが数匹泳いでいた。向きを変える度、体が銀色に光る。張った瞳から尾びれにかけて、しなやかな曲線が生まれる。不意にタモが水をかき乱し、二度ほど空すくいした後で、一匹をさらっていった。
 日に何度か、こうして仲間が消える。新しい仲間がまた増える……だが、彼らはそのことについて、「なぜ?」と問いかけてみることはないだろう。
 なぜ仲間が忽然と消えてしまうのか。いったい、何処へ行くのか……。
「何も知らないほうが幸せだ」と、そんな言葉で人は人を守ったり、慰めたりすることがある。世の中の流れには、逆らわず身を任せたほうが楽だよと、理不尽なことにも、目をつぶってしまうことが多い。
 だが、本当にそれでいいのだろうか……年々息苦しくなるこの世の中について、便利さと引き換えに失っていくものの価値について、もっと考えてみなければならないのかもしれない。
『うさぎの島』は衝撃的な絵本だ。読み終えた時、重い木槌で、胸の真ん中をズンと叩かれた気がした。血も吹き出さず、痛みも無い。だが、じわじわと哀しみがひろがって、途方にくれた。
さあ、どうするの? 今ならまだ間に合うよ……
絵本がそう呼びかけていた。だが、私は本を膝に乗せたまま、しばらく身動きできなかった。
のどかな草原の真ん中にその工場は建っている。そこは「うさぎ工場」だ。中には狭い檻があり幾百匹のうさぎが暮らしている。季節もわからない。昼か夜かもわからない。そういうものがあったかさえ、すっかり忘れてしまったうさぎたち。人口のやわらかい照明の中で、ひたすら与えられた餌を食べ続けている。
ある日、太った灰色うさぎの檻の中に、小さい茶色うさぎが放り込まれた。
「ぼくこわいよ。こわくてたまらないよ」
 震える茶色うさぎを、灰色うさぎは慰めた。
「心配いらないよ。ここにはいつも、小さいうさぎが運ばれてきて、太ったうさぎは、ここよりもっといいところに連れて行ってもらえる。そこにはすごくでっかい白うさぎがいて、みんなを守ってくれるんだ」
 それを聞いた茶色うさぎは、待っていないで、そのいいところに行ってみようよと提案する。
「そこはきっと、ぼくが前にいたお百姓さんとこと同じだよ。カブの畑があって、おひさまが輝いて、夜にはお月さまが見えるんだ。きみ、覚えてる? 草や野菜の葉っぱや、根っこを」
 灰色うさぎは、そんなものとっくに忘れていた。だが、「もちろんさ」と、うそをついた。
 二匹は壁を食い破り逃げ出す。だが、工場暮らしが長い灰色うさぎは、穴の掘り方も草の味も、思い出せなかった。すっかりへとへとになってしまう。
「ああ、工場に帰りたいよ。工場ほどいいところはどこにもない」
 震える灰色うさぎを驚いた目で眺め、茶色うさぎは彼を工場まで送って行く。灰色うさぎは懇願する。
「いっしょに逃げ出したんだもの、帰るのもいっしょに帰ろうよ」
「ぼくは、帰れない」
 二匹は工場の前で別れる。
「ごきげんよう。小さな茶色うさぎ。幸せを祈るよ」
 野原に向かってまっすぐ駆けていく小さな茶色うさぎ。それを見送る灰色うさぎの見開かれた瞳。
「今ならまだ、間に合うよ、灰色うさぎ」
私は、心の中で呼びかけた……。


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