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安曇野いろ「山へ」

「街と山のあいだ」
若菜晃子 著 KTC中央出版

美しい一日

一年に数度、たとえようもなく美しい日がある。
朝から光がさんさんと降り注いで、
あたり一面明るく輝いていて、
吹く風は澄んで心地よく、
ことのほか静かで、
足もとには柔らかな影ができる。
そうした日に、街を歩きながら、今日は山はいいだろうなあと思う。
山全体がまぶしく光っていて、
木々の葉がそよいでいて、
日の光がふんわり暖かいだろう。
歩いていると山の中の匂いがする。
花の香りがどこかから降ってくる。
鳥の声や沢の流れ、小枝を踏む音。
自然の音だけが聞こえる。
今日山に行っていたら、いいだろうなあと思う。
もったいないなあと思う。
山は今日一日美しくて、やがて夕方の光になって、
また夜の闇に包まれるのだろう。
そんなふうに思う日が、一年に何度かある。

冒頭に描かれた若菜さんの詩のような前書きのような
この文を読むと、なんとも言えないしあわせな気持ちがする。

ひとは誰でも、多重的な空間を持って生きるのかもしれないが、
「山」というもうひとつの世界をもっているひとがうらやましい。
誰でも行けそうで、それでもなかなか行くのはむずかしい場所。
わたしにとって山は、近いけれど遠い。そして激しく焦がれる場所でもある。その憧憬のような山について、若菜さんは軽やかに親し気に、深く浅く、厳しく易しく道案内してくれる。読み終わると、どこでもいいから山に登ってみたくなった。山だけの空気とそこにいる植物や動物。そこだけにしかない空気と気配を体中で味わってみたくなった。

細い線で描かれた植物スケッチは著者の手によるもの。
山に行って、じっくりと観察しながらスケッチする姿が目に浮かぶような気がする。山に登るのは、大きなことを成し遂げるような心持がするが、
足もとの植物や昆虫との出会いという、小さくとも鮮烈な出会いもある。
ふと心が、山から街へ、街から山へと流れる、そのやわらかく懐かしいような感情を若菜さんの文章はうまくとらえている。
 山と出会い、たちまち山になじんでいく様子がユーモアたっぷりに描かれていて、このひとはほんとうに、山も人もどちらも好きなんだなと思った。
風がないのにちらちらとそこだけ葉が揺れるのを「てふり」というのだとこの本で初めて知った。ひとすじだけの風の通り道。時折、そんなふうに葉が揺れるのを見て、ちょっと怖くなったり、不思議に思ったりしていたけれど、「ああ、てふりだな」とこれからは親し気に眺めることができるだろう。
「山座同定」。山並みがきれいに見える日、あるいは見晴らしの良い場所に上ったとき、うちの夫も必ず「あれは何々、その横は」と指さしながら山座同定をする。この章を読みながら、そうか山座同定は知識自慢というよりは、その山の思い出を反芻する行為なのだとやさしい気持ちになった。
これからは、夫が山座同定を始めても、にこにこ笑って聞いていられそう。
「何でも話せる相手など数えるほどしかいないように、長い年月を経て得た大切なものはそんなにたくさんはない。だからこそそれは、何にも代えがたい自分だけの喜びだ。そんな自分だけの山をいくつか引き出しに入れておくといい。日常の生活とは別の世界が、いつでも行ける距離にあって、そこに行きさえすれば自分自身に立ち返って安らげるということが、人生においては稀有なことであり、自分を救ってくれることにもなると思う」
その言葉には、もう高い山は体力的に無理だけれど、手ごろにのぼれる山に、足を運んでみようかという気持ちが湧いて来た。
 心に残る章がいくつかあった。
「羊飼いの時計」と呼ばれるバラモンギクのことを書いた「今日の夕陽」。
バラモンギクは朝開いて昼閉じるので牧人がこの花を見て昼寝をすると言われる。
「佐志岳の犬」山で出会った犬連れのおじいさんの話。山頂で犬を見失い、犬をさがすおじいさん。犬が見つかったのか見つからないのかわからず、心残りだった。
「ヨタカの宿」楽しく美しい思い出が残る山奥の宿をふたたび訪れたものの、その時とは全く違った印象に狐につままれた心持ちになる。そしてその夜聞こえた不気味な鳥の声(ヨタカ)がその宿の女主人の心の叫びのように思えたという、じんわりと怪談めいた話。
 こうして並べてみても、ほかにもほかにもと好きな章が心に浮かぶ。まるごと好きな本だったのだなと気づかされた。





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