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安曇野いろ「タウゼマイン」

 魚豊 作・画 「チ。」
    ー地球の運動についてー

 八巻からなる地動説の劇画を読み終えた。迫力のあるストーリーだった。
天文学と哲学と宗教の物語。タイトルの「チ」は「地」であり「知」であり「血」であるという。冒頭から衝撃的な拷問場面だった。本書の中には、異端審問官による拷問シーンが繰り返し描かれる。そこから目をそらすことは不可能だ。さすがに一読目はドキドキしっぱなしだったが、再読したときには呼吸が楽になった。命がけで「真理」を守ろうとする人々を描くためには、この拷問の描写が残虐なのも致し方ないのだと納得した。
 舞台は十五世紀前期のP王国。天動説が信じられ、C教による異端者の取り締まりが厳しい時代。異端と疑われ捉えられた者は拷問の末、生きながらに火あぶりとなる。肉体を消滅させれば、最後の審判で復活する体がなくなる。
 大多数が信じる思想(C教)に従っていれば、楽に生きていくことができるのに、真理(地動説)を知った者たちは、命を顧みずにその世界へと突き進んでいく。フベルトからラファウへ。さらにオクジー、バデーニ、ヨレンタ、ドゥラカと、身分も立場もちがう人々の手に、地動説のバトンは手渡されて行く。彼らは自らの命と引き換えに、地動説の教えを次の者へと託す。
 対する異端審問官ノヴァクの執拗な追跡、拷問が物語の緊張感を高めていく。ノヴァクは悪役として描かれるが、彼の側にも別の「真理」があり、真理の対立によって悲劇が起きて行く。作者は地動説を軸に知と暴力について書きたかったと述べている。拷問官ノヴァクの娘ヨレンタによって地動説の本が印刷されるという筋立ては興味深かった。
「原始の時代、人間の間で利害が対立したときに、決着をつけるのは原則として暴力なのです」と、『人はなぜ戦争をするのか』の中でフロイトも述べている。「人間には相手を消滅させようとする欲求が潜む」のだと。
 だが、フロイトはこうも述べている。「知性の力が強くなり、欲動をコントロールし始めたことです。文化の発展のプロセスのために必要とされてきたわたしたちの心的な姿勢は、戦争にはあくまでも抵抗するものであり、わたしたちはもはや戦争には耐えることができないのです。これは単に理性的な拒否や感情的な拒否というものではありません。わたしたち平和主義者は、戦争には体質的に不寛容になっているのです」
 だれもが平和主義者になるまで、あとどれくらい待たねばならないかはわからないけれど、文化的な姿勢と戦争がもたらす将来への不安という二つの要素が相まって、戦争はなくなると期待したいと、フロイトは締めくくる。
 さて、「チ。」の中で、知はどのように働くか。
要になるのは「タウゼマイン」ー存在驚愕 と言う言葉だ。主人公たちは地動説の存在に感動することによって、死をも超越した行動をとって行く。知への欲求は学ぶことによって深まり、追及された真理は証明証明される。そして真理を発見した者は、その真理に身を捧げる。
 こうして天動説から地動説へと時代は移っていくが、神の存在を否定したわけではない。
 最後の方で、アルベルトと司祭が交わす言葉がある。
司祭「神はいつでも私たちの居場所になって下さる。そのためには私たちが自分自身を乗り越え神に向き合わねばならない。自分は神に認めてもらえる存在なのだろうかと」
アルベルト「でもいくら悩んで問うても神は口を開かない」
司祭「だから永遠に私たちは考え続けられるのです。わたしはそれを幸福だと思いたい」
 アルベルトは司祭のこの言葉で大学に進むことを決意する。のちにアルベルト・ブルゼフスキは天文学の教科書「惑星の新理論」を書き、彼に学んだコペルニクスが「天体の回転について」を発表。そして、ガリレオ・ガリレイへと続いて行く。今は地動説を当たり前に受け入れているし、宇宙の姿も映像を通してその一部を見ることは可能だ。けれど、タウゼマインを実感することも命を懸けてなにかを守ろうとするのも希薄になっているような気がする。命がけの物語を読んだあとだからそう感じるのだろうか。
 否、私たちは心の奥深くに隠し持っているはずだ。タウゼマインも命がけの仕事も。だから、震災や戦争を実感としてとらえたとき、ひとは思いがけないほどの力で大切なものを守ろうと動くのだと思う。
 


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