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安曇野いろ「遊戯(ゆげ)」

 ひろさちや著『はじめての仏教』を読む。今まで頭に入って来なかった内容が面白いように分かって、楽しかった。文章のわかりやすさと共に、こちらもやっと仏教について学びたいと思う気持ちが追いついて来たからかもしれない。

 釈迦は出家者の弟子には解脱への道を、在家信者の弟子には正天の教えを説かれた。釈迦が滅した後、出家者たち(阿羅漢)が小乗仏教の流れを、在家信者たちが大乗仏教の流れを作っていく。

 仏教の根本精神は「中道」にある。そして私たちの修業の場は日常だ。「波羅蜜」も難しい言葉で表せば、実行するのがむずかしいような気がしてしまう。けれど、要は、欲張らず他人を許し、いたわりや感謝の気持ちで過ごす、ということに尽きる。それを苦行でなく中道の精神で行うこと。

十二月は来し方行く末を想う月で、自分の内面に深く分け入っていくような感覚がある。キリストもブッダもアマテラスも関係なしに、自分自身の心の在り方を想って見る。
欲や嫉妬や怒りや不安という心の中の「あばれもの」をどう御するか。日々を穏やかに生きることの術を中道という精神の中に見出したい。
その先に自由で開放的な喜びが待っている気がする。

 昨夜は、祖父の夢を見た。
母の実家を、私は久しぶりに訪ねていた。
その私は、十歳ほどの子どもの頃に戻っている。
庭に祖父がいる。犬を連れていた。中型の白い犬で、背中に黒い毛が混じっている。祖父は背をぴんと伸ばした若い頃の姿だ。いっしょに土手をのぼって草の中を歩いて行く。「倉本のお店に行くんだ。お菓子を買ってもらえる」そう思って私は弾んでついて行く。
ちいさな店の中は人がいっぱいで、そこに友人を見つけた私は、その子といっしょに帰り道に着く。
途中で祖父を置いて来たのに気づいて、友人と別れ私は引き返す。
その道はなぜか暗く遠い。雨まで降り始め、体も重く、行けども行けども、
行き着くことができない。
そこで目が覚めた。

 やけにはっきりした夢だったので、どうして夢に祖父が出て来たのか、明け方の布団の中で考えた。
ああ、そうだ。祖父が編んだ藁草履を従兄が持って来てくれた。それを玄関に飾ったことを思い出す。きっと草履を通して思いの糸が繋がったのだろう。

あの世に行った人にもう二度と会うことは叶わないけれど、こうして魂には会える。夢の中で祖父と出会えたのはうれしかった。会いたいと思うときに会えるわけではないけれど、思いもかけないときに会いに来てくれた…そんな感じがして幸せだった。

 

 

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