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安曇野いろ「ものがたり」


上橋菜穂子「物語ること、生きること」講談社

 お話上手なおばあちゃんの存在が、幼いころの上橋さんの心を
やさしく耕して物語の種を蒔いたのだとエピソードを読みながら感じた。
       おばあちゃんの語り。
 <土饅頭に埋められた無縁仏を哀れに思い、掃除をして花を供えている老夫婦のもとに、ある夜、鎧金具の音をちゃりちゃりと鳴らし、平家の落人があらわれる。「夢ではないぞ夢ではないぞ」と言いながら。毎日供養してもらったおかげで、成仏できると礼を言って武者は消えて行く。
 鎧金具や落ち武者の言葉を知らなくても、子どもの耳には、ちゃりちゃりという音や、夢ではないぞという祖母の声色が、大人になってからも残っている。>
 <農家の嫁さんが生んだばかりの赤ん坊を畝において畑仕事をしていた。ふっと気がつくと、赤ん坊がいない。村中のものが探したが見つからない。
何年かして猟師が、大きな猫が子どもを育てているのを見つける。化け猫眼と猟師は猫を撃ち殺す>
   この話にはもう一つ別の結末がある。
<村人が赤ん坊を山にさがしに行くと、木の上に赤い端切れをいっぱい集めたような巣があった。冬枯れの山には赤い色はどこにもないので、そこだけとても目立った。のぼってみるとごく普通の家猫が巣を作っていて、その巣の中に赤ん坊が眠っていた>

日常と物語の境界線を行きつ戻りつしていたという上橋さんの幼年時代。
語りをするおばあちゃんの存在がとても大きかったことを感じる。

以下は覚書に。
文章から抜粋した物語の紡ぎ方

「物語は、たいてい、ひとつの場面がぱっと頭に浮かんでくることから始まります。その場面に、いくつか別の場面やイメージが結びついていったとき、物語の芽がぐんぐんと育ち始め、あ、書ける、という感覚がやってくるのです」

「作家の性というものは、妙にしたたかなもので、愛犬が死んだときも、悲しくて悲しくて涙が止まらないのに、その悲しみをうしろから傍観者のように見ている自分がいたりするのです。デッサンをするように記憶にとどめておこうとしている、とてもとても冷静な自分がいるのです」

「つらいとき、自分の外側に出て、「人生という物語」の中を、今生きている自分を見る。そうしていると、つらい、悲しいことだけじゃないな、喜びもあるよな、と気づいたりする。小さくとも喜びがなかったら、苦しみや悲しみを越えていくことは、なかなかできないでしょう」

「プロの作家は、そこにありきたりじゃない、自分だけの道筋を必ず見つけ出すものです。それがあるかどうかは、自分で自分が書いた物語を直してみればわかります。一日の作業としては、朝書いて、夜書き始めるとき、また読み直して、直す。のりしろじゃないけれど、そうやって書いたところをくりかえし直していると、そこからまた新しい芽が出て来ます。そして翌日になると、その新しいところをまた直すと、そこからまた新しい芽が出て来るので、それをまた直す…というのを繰り返しているのです」

「物語を書くことは、そのひとことでは言えなかったこと、うまく言葉にできなくて、捨ててしまったことを、全部、ひとつひとつ拾い集めて、本当に伝えたかったことはこういうことなのだと、伝えることなのだと思います。
物語りにしないと、とても伝えきれないものを、ひとはそれぞれに抱えている。だからこそ、神話のむかしからたくさんの物語が語られてきたのだと思うのです」

 指輪物語のビルボが「足ふきマットの上でもそもそしてるやつ」と思われたくない一心で、居心地のいい暮らしを捨てて旅に出る。その例えを引きながら、夢をかなえるためにいかに自分を鼓舞したか、そうして自分の世界を広げていったかが、説得力のある内容で書かれている。オーストラリアでのフィールドワーク、古武術入門など、さすが「バルサの生みの親」と思わされた。自分の中の弱さを知った上での強さ。上橋さんの壮大なファンタジーに魅了される読者は多い。本書はその物語の血となり肉となったものを余すところなく語ってくれている。豊かな想像力と様々な体験と鋭い感性、そして、それを育んだのが、お話し好きのおばあちゃんや読んだ本の主人公たち。この世に存在するたくさんの物語とそれを紡いできた人々に、私も心から感謝したい、そんな気持ちが湧いて来た。
 改めて、読書の喜び、書くことの喜びを感じさせてもらえる本だった。
 



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