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「箱」

 「高橋睦郎詩集」高橋睦郎・思潮社 

  川村美術館は、自宅から車で二十分程の処にある。庭園散策も楽しめる美しい美術館だ。約束をした日は、朝から雨だった。細かい雨はやがて強い雨脚に変わり、紫陽花の葉を震わせた。散策の楽しみは雨で半減するかと思いきや、雨の日には雨の日の楽しみ方があるものだ。同行の若い女性ふたりはお洒落な長靴姿で嬉しそうに雨の中を闊歩、小川にも足を踏み入れて楽しそうだった。大賀蓮の丸い葉っぱの上で雨が銀の珠を結び、隣の池には白と紅の睡蓮が静謐な佇まいを見せる。葉桜の中には、青いさくらんぼがいっぱい隠れていた。
企画展示は、ジョセフ・コーネルのコラージュ作品と高橋睦郎さんの詩のコラボレーションだった。入り口に掲げられた「この世あるいは箱の人」と題する高橋さんの詩が、孤独を愛した芸術家コーネルをつぶさに語っていた。「さあ、探してご覧、コーネルの魂を。あなたには見つけられるかな、僕は見つけたよ」そんな高橋さんの得意げな声が行間から聞えてきて、私は姿勢を正した。
暗い展示室の中に、足を踏み入れる。闇の中に、部分照明を受けて白い箱が浮かびあがる。コーネルの箱は、白く寂しく、遠い世界へと細く深くつながっていた。箱の中に閉じ込められたものは、楽譜、写真、コイン、プラスチック、金属、ガラス、木片……など様々だ。幻想的な小さな箱宇宙に、私の目は釘付けになった。箱の中にコラージュされたものたちは、いつかどこかで私が失くしたもの、捨て去ったものではないか……記憶が心の隅でコトコト音をたてる。覗きこむ展示方法は、見る人にカラクリ箱を連想させる。カラクリ箱の奥には別の世界がある。そこで見つかるのはコーネルの魂のはずだった。しかし、見つかったのは懐かしい自分の記憶ばかり。 
コーネルの作品の魅力を、詩人の高橋睦郎さんも「懐かしさ」と言う言葉で現していた。稲垣足穂の「地上とは思い出ならずや」を引用しながら、私達のこの地上での生は実は誰かの思い出にしか過ぎず、だから私たちは地上にいながら、この地球に言い知れぬ懐かしさを覚えるのではないかと解説していた。その言葉は、私に展示室出口のコーネルの写真を思い出させてくれた。写真のコーネルは、中庭の古い椅子に座って静かに足元を見ていた。彼のその視線の先にあるもの、ひょっとしたらそれは、彼の作品を眺めていたさっきの私達の姿ではないか。天空から、彼はずっと地上の私達をみつめていたのではないか。そう思った途端、彼のカラクリ箱の中に再び放り込まれた気がした。もしかしたら、会場全体が彼のカラクリ箱だったのかもしれない。人はみな自分の記憶の中を生きているのだと思っているけれど、足穂が言うように、私達は誰かの記憶の中の一部分に過ぎないのかもしれない。
美術館で高橋さんの詩集を買った。詩人の言葉は、真冬の空気のようにピンと張り詰めていた。長いこと晒されていると、心がひりひりする。見慣れた言葉でありながら、その組み合わせと魂の込め方で、これほどまでに別世界の言葉に成り得るのかと思いながら、異空間を彷徨いながら読んだ。「詩」もまた「箱」のようなものだ。その短い文の塊は、深く遠い世界へとつながっている。「箱」は、物を閉じ込めるものではなく、現実世界と別世界とをつなぐ通り道なのだ。玉手箱やパンドラの箱、箱舟などを思い浮かべながら、「本」もまた「箱」なのだ、いや、言葉そのものが「箱」なのだと思い当たった。

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