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安曇野いろ「マイモニデス物語」

『昼も夜も彷徨え』マイモニデス物語  
           中村小夜  中央公論新社

 中村小夜の「昼も夜も彷徨え」をラジオドラマで聴いた。
久しぶりに聴いたラジオドラマは新鮮で、テンポの良い展開が楽しかった。
自由奔放な青年思想家の波乱万丈な物語になっていた。だが、耳では拾い切れない大事な言葉がいくつかあった。原作をふたたび手に取ってみた。
 主人公のマイモニデス(モーセ・ベン・マイモン)は、ユダヤの思想家であり哲学者、医師でもある。ユダヤ教徒への迫害が厳しくなる中、アンダルシアからモロッコへ、そして、シリア、エジプトへと逃れて行く。どこにいても紙とペンを離さず、聖典を解釈、編纂し直し、迫害に苦しむ人々を救い、彼らに勇気と希望を与え続けた。モーセ自らもその迫害の中に絶えず身をおきながら。
 スペインの南部のアンダルシア地方。「アンダルシアの宝石」と呼ばれた美しいコルドバの街からモーセの物語は始まる。
 父のラビ・マイモンは、格式ある学者の家柄で、ユダヤ共同体のラビであり、裁判官でもあった。母のサラは肉屋の娘で、身分ちがいのマイモンに乞われて嫁ぐが、モーセを産み落としてすぐに亡くなった。肉屋である祖父のアモスは、真実の信仰とは何かを、学問ではなく自分の生き方を通して、孫のモーセに示した。
 父の正当な賢者の血筋と奔放な母の血筋を併せ持つモーセは、机上だけの学問に疑問を抱き、ラビになることを拒み、放浪の中で生きた智慧を身につけていくことを決心する。人々を救うための真の宗教とは何か、信仰とは何か? 宗派の戒律を示すトーラーやミシュナの解釈を、モーセは誰にでもわかりやすい自身の言葉で書き表していく。 
 モーセの傍らには、兄を慕う義弟のダビデがいる。ダビデは子ども時代からモーセの真の理解者であり、やがて商人となったダビデは、経済面でも精神面でもモーセをサポートしていく。
  物語の背景は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つ巴の紛争に政治権力が絡み合う。モーセは棲む場所を追われながらも、宗教は為政者のものでなく人を救うためのものだという信念を貫いた。強制的に改宗を迫られ仲間からも孤立する者を救うため、経典の解釈を極めて行く。過去にも、境遇にも、住む土地にもとらわれず、自由に生き、自由な魂で神を求めるための道しるべなるように。
 モーセがダビデの妻のライラに心のうちを語る場面がある。
「わたしは長い間、ずっと彷徨ってきました。だが、恐れることは何もなかった。迫害を受け苦しんでいる人たちに、わたしは生きろと言った。屈辱を受けても、偽りの改宗をしてでも生き抜けと言い続けた。
 相手がイスラーム教徒であれキリスト教徒であれ、生き方を押しつけられ、自由を奪われるくらいなら、家も故郷も、持ち物もすべて手放して、何度でも旅立つ」
「自由なくしては生きられない。だけど、命は、生きているということは、それだけで多くの枷を負うことでもある。ほんとうに自由でありたいと願えば、最後には命を手放す以外にないのかもしれない。究極の自由は限りなく死に近づく。あるいは神の領域に近づくと言ってもいい。わたしなその極限の世界にあこがれながら、しかし同時に、多くの枷にまみれた世俗の生も愛おしい。相反する二つの世界を求め、どちらにも身をおかず、ひたすらその間の道を彷徨い続けている。それが私の信仰の形なのかもしれない」
 ミルトスの白い花の甘い香りの中で、モーセの魂とライラの魂が出会う場面。それは愛を越えた愛の瞬間のように思える。のちに、ダビデとライラの娘マリカが、モーセのもとを訪れる。ライラから託されたミルトスの花束を持って。長い船旅で花はすっかりしおれていたが、モーセは満開のミルトスの花の香りがそこら中にあふれているのを感じる。そして、書き終えた「迷える者たちの道案内」の最後に、新たな言葉を書き足す。
「たゆみなくまことに呼び求めば
 神はその人のすぐそばにいまし
 まよいなく向かいて歩みゆかば
 神は求む者みなに見いだされん」。

焚書になり姿を消したはずのモーセ注釈の「トーラー」と「ミシュナ」の法典も、最後にはモーセのもとへと戻ってくる。義弟のダビデが命を懸けて守り続けたおかげだった。
 史実としてのドラマの上に、陰謀やロマンスがちりばめられ、そして宗教とは何かを哲学的に問いかける。なじみの薄かったイスラム社会の空気感を新鮮に感じながら読み終えたのが何よりの収穫だった。迷いの中で宗教に救いを見出す人は多い。無宗教であっても、どこかで神の存在を信じる人がいる。神を強く信じる故に、自分たちの宗教以外を異端と唱えて、迫害したり拷問にかけたり裁いたりする。
 神の存在について、考えこまずにはいられない。
 神という絶対的な存在がなければ、私たちは迷い、絶望し、生きる力を失ってしまうのだろうか。
 
「どれほど絶望的な状況に置かれても、どれほど救いを求めて手を伸ばしても神は決して応えることはない。神はどこにいる? 天界に? 聖地に?
祈りの場所に? 人の心のうちに? 人間が決して知り得ない領域に?
それでは存在しないも同じではないか。
 人は決して神を知ることはできない。無限を知ることも、永遠を見ることもできない。
無限という言葉を発した瞬間、それは空間の枷を負い、
永遠という言葉を発した瞬間、それは時間の枷を負う。
神は唯一であり、絶対者であり、創造主であると口にした瞬間に、
それは言葉に限定され、真実の姿は遠ざかる。
神はどこにいるのか?
神とは何者なのか?
人はそれを決して知り得ないというのなら
神はどこにいないのか?
神は何者でないのか?
その否定をかき集められるだけ集めて行けば
無数の否定のその果てに、否定しつくせない最後の領域が残されるのではないか?
無限を知ることができないのなら
目の前の形あるものを愛おしむ。
永遠を見ることができないのなら
形を変え、滅びゆくものを抱きしめる。」

 上記の二重否定による神の認識論がマイモニデス物語のクライマックスだろう。ならば、下記のマイモニデスの言葉は、物語全般を通して鳴り響くテーマ旋律なのかもしれない。

「家も、故郷も、持ち物もすべて手放して
己の信じるものを守れる場所を見つけるまで、昼も、夜も彷徨え。
世界は大きくて広いのだから。」

事実、モーセ(マイモニデス)はすべてを手放して、彷徨い続けた。
『神の遍在(シェキナー)』の語源は『住まい』。
 ユダヤの民は、長い間、離散と流浪を繰り返してきた。だが、逆に言えば、すべての場所を住まいとし、地上のあらゆる場所を故郷としてきた。

「過去にも境遇にも、住む土地にもとらわれず、自由に生き、自由な魂で神を求めること。そのとき初めて私たちは、自らの内にトーラーと言う揺るぎない王国があり、世界のあらゆる場所に神の恵みが満ちていることに気づくでしょう」
 
宗教もその戒律(法律)も、人を縛り、戒め、対立を促すものではなく、
ひとを自由にし、守り、和に導くものでなければならない。
 哲学と宗教の叡智を極め、何よりも命を大切に生きろと説いたユダヤ思想家マイモニデス。平和思想の礎となったマイモニデスのような人々は多いのに、なぜ今だに紛争も戦争も絶えないのだろうか。
 


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