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「磨く」

「無私の日本人」磯田道史・文藝春秋 

 『武士の家計簿』の著者としても有名な磯田道史さん。難解な古文書を読み解き、文字に潜む人情の機微や精神の有り様を掬い取って人間ドラマを再現してくれる。磯田さんの『無私の日本人』を読んで、気持ちを励まされた。
 本に取り上げられているのは、穀田屋十三郎(1720―1777)、中根東里(1694―1765)、大田垣連月(1791―1875)。三人とも、無私の心で生きた人々だ。人の苦しみを我が事のように憂え、赤貧を恐れず、不屈の精神で己の目指す道を全うした。
 穀田屋十三郎は、仙台藩、吉岡宿の生まれ。衰退する宿場を憂え、九人の同志と共に、身代が潰れるのを承知で出資し、武士に金を貸して利子を取る事業を起こした。無謀な計画だったが、家財を売り、妻子も売りに出す覚悟で、資金繰りをする。嘆願書は役人の手でたらいまわしにされるが、最後は捨身の覚悟が実を結び、宿場は救われた。穀田屋は遺言を残した。「わしのしたことを人前で語ってはならぬ。わが家が善行を施したなどとゆめゆめ思うな。何事も驕らず、高ぶらず、地道に暮らせ」。磯田さんが取材で訪れた時、吉岡の人々は口々に先人の偉大さを語ったが、穀田屋の子孫の方々は、多くを語らなかったそうだ。「先祖が偉いことをしたなどと言うてはならぬと言われてきたものですから」と。伝えられ守られてきた「謙虚の家訓」に、またもや胸が熱くなった。
 中根東里は、稀有絶無の天才と言われながらも、村儒者として生き、村儒者として死んだ。乞われても仕官せず、極貧生活を送り、寝食を忘れて書に親しんだ。大事な書物をも、病いに苦しむ見ず知らずの男の薬代にと売り払ってしまう東里。「学問は道に近づく為のもので、書物を蓄えるものではない」と。
「心の中に美しい玉がある。玉は大小あって、聖人は大きいが、小さい玉でも磨けば美しく光る。この玉を磨くことが、人の生きるつとめではないか」と彼は説いた。分かり易く徳の高い東里の講義を聞く為に、村の泥月庵には人が溢れた。
 大田垣蓮月は美貌の才女だったが、夫や子を次々亡くし、出家する。歌を詠み焼き物を作って暮らした。困った人がいると何でもくれてやった。私財を投じて、橋を作ったりもした。西郷隆盛に「あだ味方勝つも負くるも哀れなり同じ御国の人と思へば」と書いた短冊を送り、江戸城総攻撃を回避させた功労者でもある。
「この国のありようを見るにつけ、千の理屈より先人の生きざまを辿った方がいい……自他を峻別し、他人と競争する社会経済のあり方は、大陸や半島の人々には合っているかもしれないが、日本にはそれとは別の深い哲学があり、その哲学が無名の普通の江戸人に宿っていた。そしてそれが奇跡を起こした……ほんとうに大きな人間というのは、世間的に偉くならずとも金を儲けずとも、ほんの少しでもいい、濁ったものを清らかなほうにかえる浄化の力を宿らせた人である」。
 磯田さんのあとがきにこもる「人の心」への信頼と希望に心打たれた。その確信は、古い書物を読み解き、丹念に史実を辿る地道な作業から得られたものだろう。
本当に怖いのは貧しさや災いではない。心の玉の輝きが曇ること。今は物が豊かだけれど、資源の乏しいこの国が、いつまた災難に遭って貧しくなるかはわからない。その時、私たちは、先人の無私な生き方を果たして真似できるだろうか。各々、心の玉を磨くのが肝心だ。リーダーと呼ばれ、国を動かす人は特に念入りに。 


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