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「微笑む」

「日本瞥見記」
  小泉八雲・筑摩書房

 車のエンジンをかけようとしたら、窓の外に子どもの顔が動いた。「あのう、これ落としました」。開いた窓から、一円玉が差し出された。レジで財布を開いた時、転がり落ちたらしい。少し時間が経っていたことを思えば、彼女は一円玉を手にしばらく迷い、やっと勇気を出して追いかけて来たのだろう。「ありがとう」の言葉に、ほっとした顔で笑ったその子。もっと言葉をかけたかったが、駆け去る背中にもう一度ありがとうと言うのが精一杯だった。
昨年の夏にも、こんなことがあった。庭のラズベリーを葉っぱに包み、自転車のかごにそっと載せて友人に届けに行った。途中、その実を歩道にぶちまけてしまったのだ。あわてて拾っていたら、小さな手が横から伸びて一緒に拾ってくれた。たちまち葉っぱのお皿に実が戻った。「ありがとう」。すると、「きれい」とその子がつぶやいた。緑の葉っぱに赤い苺。自然からの贈り物はそれだけで美しい。だが、女の子の一言でその実はさらに輝いた。
思いは目には見えないが、行為と言葉が心を伝えてくれる。どちらの少女も小学校の低学年。どちらも嬉しい出来事だった。
「他人よりまず自分」の風潮が強い昨今だが、他人を思いやれる子どもたちも確かに育っている。その子たちが、自分が培ってきた価値観を覆すような場面や言動に出会いませんように。出会ったとしても、自己を守れる強さを持っていますように……。
『日本瞥見記』には、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が捉えた明治期の美しい日本の情景が、まるでお伽の国の魔法の出来事のように書かれている。ハーンほど愛情を持って、日本人を観察した異邦人はいないだろう。微笑について書かれたこんな一文がある。
「わたくしは道のかたわらのごく小さな寺の門前に立っている、地蔵の像を見に足をとめた。その像は、美少年の寺の小僧の像で、顔にたたえている微笑は、仏像のそれに丸写しであった。わたくしがそれを眺めていると、そこへ十ばかりになる男の子が駆けよってきて、地蔵の前に小さな手を合わせると、お辞儀をして、しばらく無言のまま拝んでいた。遊び仲間からちょっと抜けてきたらしいその子の顔には、遊びの楽しさと紅潮した血色が見え、無意識なその笑顔は、拝んでいる地蔵の双子の兄弟かと思うほど、ふしぎによく似ていた……」
 日本人の笑いは、外国の人から見ると不可解だと、よく言われる。だが、ハーンはそれを地蔵の笑みと重ね合わせた。日本人は自分の戸惑いや哀しみを他人に悟られぬよう、相手を気づかって笑みを浮かべるのだと。そしてそれは親から子へと伝えられる自己抑制の慈顔なのだと。
ハーンは日本のあちこちで、この地蔵のような微笑に出会っている。もしかしたらそれは、見知らぬ人への戸惑いを隠す表情だったかもしれないが、その微笑を彼は日本人以上に愛した。「欧米化で日本が失うものは多いだろう、いつかその失ったものの大切さを悔やみ驚くだろう」と、ハーンは明治期に予言した。
「古風な忍耐と自己犠牲、昔の礼節、古い信仰の持つ深い人間的な詩情……おそらくその中で、最も驚くのは古い神々の顔であろう。なぜなら、その微笑はかつては自分の微笑だったのだから」
ハーンが描いた「『にこにこしている小さな人たち』の国」は確かに変わった。お地蔵様のような微笑を浮かべた子どもや大人が、今どこにどれだけ残っているだろうか。

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