「蒔く」
「木を植えた男」
ジャン・ジオノ/あすなろ書房
きれいに紅葉した葉を枝に残したまま、ヤマボウシが冬晴れの庭に立つ。冴々とした新年の空気が刃のように襲い掛かるのに、木々は休眠に入らないのか。藪になったラズベリーも、赤い実をぽつぽつと実らせている。土を踏みしめると、震災の日の灰色の空と震える木々、不気味な大地の揺れを、未だに思い出す。あの日以来、私たち日本人が「生きる」事を再認識したように、植物も「イキル」ことを噛み締めて一年を過ごしてきたのかもしれない。土にじかに根を張った彼らには、汚染の濃度も地球の嘆きも切実に伝わっているだろう。紅く染まった葉や赤い実は、植物の言葉かも知れない。植物が「フンバルゾ」と意志表明しているように私には思えた。
凍みた土が緩んだ庭には、小さな芽がいくつも頭をのぞかせている。水仙、ヒヤシンス、種がこぼれた千鳥草。「ああ、よかった、まだ『沈黙の春』にはならない」と、ほっと胸をなでおろす。雀達が草の実を食べにやってきて電線でおしゃべりしているし、シジュウカラやメジロは、山茶花の垣根に潜り込んで追いかけっこしている。農薬を使わないようにと心がけてきた庭なのに、原発事故で農薬どころの騒ぎではなくなってしまった。小さな事にこだわって生きても、結局大事が起きればそんなもの吹き飛んでしまうのかと空しかった。そんな折、画家の友人が送ってくれた言葉が頭をかすめた。「たとえ世界の終わりが来ても、今日、私はオレンジの木を植える」。これはイスラエルの諺だ。マルティン・ルターも同様の言葉を、「オレンジの木」を「林檎の木」と言い代えて残している。ファンタジックな心象風景をこつこつと描き続けている友人らしい、誠実な言葉の贈り物だった。何が起きようとも、私達は自分が信じる事を毎日続けて行くしかない。それが「暮し」であり、生きる「道すじ」になる。
私は、一冊の本を書棚から取り出した。ジャン・ジオノの『木を植えた男』だ。廃墟となったプロヴァンスの不毛の村に、黙々とドングリの種を蒔き続けたエルゼアール・ブフィエの物語。フレデリック・バックの柔らかな絵を挿んだ七十頁程の短い叙事詩である。短いながらも、そこには気の遠くなるような時間が閉じ込められている。読み終えた時、長い旅を終えた後のような深い満足感と安らぎに満たされる。
「あまねく人びとのことを思いやる/すぐれた人格者の精神は/長い年月をかけてその行いを見さだめて/はじめて、偉大さのほどが明かされるもの。/名誉も報酬ももとめない/広く大きな心に支えられたその行いは、/見るもたしかなしるしを地上に刻んで/はじめて、けだかい人格のしるしをも/しかと人びとの眼に刻むもの」。
序文のこの言葉が、この物語の全てだろう。荒地に埋めたドングリが時を経て森に変わったのを目の当りにして、旅人である主人公の「わたし」は、驚嘆する。「戦争という、とほうもない破壊をもたらす人間が、ほかの場所ではこんなにも、神の創造にもひとしい仕事を成し遂げることができるとは」と。孤独の中で鍛えられたブフィエの精神の強靭さが何より心に迫る。まわりで何が起きていようと、ひたすら種を蒔き続けた男。途方も無い孤独は人を病ませもするが、孤高の境地にも至らしめる。「己」を捨て自然と同化できた時、人は「空(くう)」の境地になる。我が、我が……の自己主張にまみれた現代人の心に、物語は静かにささやきかけてくる。
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